第二章 第三部:訪ねてきた者たち
数日後、異変に最初に気づいたのは、外周の哨戒に当たっていた隊員だった。
『……司令部へ。南東方向、森の奥に動体を確認。……人影、三。武装は確認できません。正門の方に向かってきます』
無線から流れる緊張した声に、指揮庁舎の空気は一気に引き締まった。 距離は三百メートル以上。こちらの存在を警戒しているのか、その足取りには迷いと怯えが混じっている。 伊藤は即座に現場へ急行し、双眼鏡を覗き込んだ。
レンズ越しに見えるのは、使い古された野良着を纏った年嵩の男と女、そして若い男だった。 いずれも農民の貧しい身なりをしており、特に年嵩の二人には元気もなく、戦の気配を微塵も感じさせない者たちだ。
「弥吉の身なりと、特徴が酷似します」
先に現場にいた橋谷が、静かに補足した。
「……村から、探しに来たか」
伊藤は、無線機を手に取り、周囲の隊員へ短く指示を出した。
「武器は構えるな。だが外周の警戒線は保て。こちらから距離を詰める必要はない。相手の出方を見る」
敵対の意思がない以上、徒に刺激する理由はなかった。三人は正門の向こう側に距離を取り、駐屯地と立哨の異様な景観を前に立ち尽くした。
やがて、覚悟を決めたかのように、年嵩の男が門の前まで歩み出た。彼は格子状の巨大な門扉と、その奥にそびえるコンクリートの建物を仰ぎ見ると、徐に震える膝をつき、地面に両手をついて深く頭を垂れた。
「……お願い申します! お願い申しますだ!」
声は、震えていた。慌てて後ろの二人もその場で膝をつき頭を垂れる。
「数日前より、我らの村の若者が一人、戻っておりませぬ。山へ入り、それきり……」
伊藤は無言でその訴えを聞いた。男の声は絶望に縁取られている。
「村の者が向かったこのあたりに、見たこともない大きな“お屋敷”が現れたと噂を聞き……もしやと思い、やってまいりました」
伊藤は、一拍置いてから問うた。
「……その者の名は、何という」
年嵩の男は、額を土に擦りつけるようにして答えた。
「弥吉と申します。どうか、どうかお慈悲を……!」
やはり、逃れられぬ“縁”というものがあるらしい。伊藤は、胸の内で重いため息をつき、事実のみを告げた。
「その者は、ここにいる。怪我をしており、我々が保護しているが、命に別状はない」
その瞬間、三人の表情が劇的に変わった。女が、思わず立ち上がって声を上げる。
「……弥吉が! 弥吉は無事なのですか!」
頭を上げていた年嵩の男は、再び頭を下げた。
「お礼を……どうか、何なりとお礼をさせてください。我ら村のものにできることなら何でも……!」
「礼は不要だ」
伊藤は、その言葉を遮るように言い切った。
「ただし、今はその者を帰すことはできない」
歓喜に沸いた三人の顔が、一瞬で凍りついた。
「まだ怪我は治っていない。我々の施設で治療中だ。このままそちらに戻すわけにはいかない。……今は、こちらで預かる」
それは事実を盾にした、冷徹な線引きだった。村に戻せば、自衛隊の存在は一気に知れ渡る。それを防ぐための「保留」である。
若い男が、堪りかねたように声を荒げた。
「だが、弥吉は……弥吉は俺たちの仲間だ! そんな勝手なっ――」
年嵩の男が、慌ててそれを制した。
「……分かりました。お館様……分かりましただ」
かすれた声には、圧倒的な力への諦念が滲んでいた。
「どうか……どうか、あの者の命だけは。それだけで、それだけで結構にございます」
伊藤は、短く頷いた。
「……それは、約束する」
それ以上、語るべき言葉はなかった。
三人は何度も振り返っては、山影に潜む鋼の要塞を畏怖の目で眺め、来た道を引き返していった。 その背中を見送りながら、後方にいた橋谷が、ぽつりと呟いた。
「……やはり、来ましたね」
伊藤は答えなかった。ただ、自衛官としての直感が告げていた。
今、この世界の住人と自分たちの間に、一本の糸が結ばれたのだ。
細く、脆く、いつでも断ち切れるほど微かな糸。
だがそれは、確かにこの世界に繋がる“縁”であった。 この縁が、何を連れてくるのか――それが希望か、あるいは破滅の始まりか。 それを知る者は、まだ誰もいない。




