焼き砂糖と赦しのパフェ
月がやけに煌々と輝いていた晩のことだった。
ルチアは一人、冷えたテーブルにうつ伏せていた。
「マ……ママ――――ママ――――――――」
「アンナ!」
その声に目を覚ました。
「はぁ、はぁ……夢……そう、よね……」
汗が浮かんだ額を拭うと、ふと焼きたてのビスキュイの香りが漂った。
そんなはずはなかった。
もう何年もオーブンは熱を帯びていない。
砂糖を火にかけることすらしていないというのに。
夢の続き、そうでなければ気が触れたのかもしれない。
「あの子の……好きだった……」
ルチアは呟きを闇に溶かしながら、ふらふらとキッチンへと向かった。
その姿はまるで死者の影のようだった。
ルチアは街でも有名な菓子職人であった。
甘い香りと色鮮やかなお菓子、そして愛する家族と共に、慎ましくも幸せに毎日を送っていた。
幸せが壊れてしまったのは、ささいな不注意と不運が重なったが故だった。
その日はたまたま店の裏口を閉め忘れていたのだ。
鍋を火にかけたまま郵便物を受け取りに出なければ、娘が入ってきたのに気付いていれば。
きっと今もまだ、甘い幸せの中で生きていただろう。
燃え盛る炎で灰になった大切なものたちを抱くこともなく。
「あれは事故だ。君のせいじゃない」
「私が……私が、アンナを……ああ、あああ……!!」
深い悲しみ囚われたルチアは、寄り添う夫の優しさに耐えきれず距離を置いた。
好きだったお菓子作りも辞めて長い。
それなのに、キッチンの奥から漂ってくるたしかな甘い香りがルチアを誘った。
何も無いはずのキッチンの奥に、一枚の扉が立っている。
蔓草の彫刻が這う木製の古い扉の中央には、焦げかけたように焼き付いた文字。
《コントゥ・ブルー》
夢か幻か、ルチアがゆっくりと扉に手をかけると、カラン……と小さな鐘の音が彼女を迎えた。
視界が柔らかく変わった。
冷え切った空気は、いつの間にか柔らかなあたたかさに包まれ、壁があるはずだった扉の向こうには、灯りが淡く揺れる幻想的な静謐が待っていた。
「いらっしゃいませ」
黒衣を纏った一人の女性が、静かに立っていた。
長い銀髪と、琥珀のような目をした、まるで時という概念を拒むような異質な存在。
「ここは……?」
「コントゥ・ブルー。お客様が求めるものを提供する、パフェの専門店でございます」
「パフェ……? これは、夢……? キッチンに扉があって、それを開けたら……こんな……」
「夢、現実、そんなことは些細な問題です。コントゥ・ブルーの扉は、"求める者"の前にのみ現れるのですから」
「求める者……? 私は……パフェなんて食べる気力……そんなもの、欲しくなんか……。だいたい、あなたは誰なんですか?」
「私が誰かもまた些細な問題です。どうしても何か名称が必要なら、魔女……と。そう呼んでいただいて結構ですよ」
「魔女……?」
ルチアが声が震わすその対面で、魔女と名乗った女は穏やかに微笑んだ。
「自分でそう名乗った覚えはないのですけどね。さあ、お席へどうぞお客様。あなたのためのパフェは、もうご用意しておりますから」
テーブルに座ると、ルチアは店内を見回した。
店内の天井は高く、ドーム状に緩やかに広がっている。
漆喰の白壁に反射するのは、ステンドグラスから差し込む陽の光。
光は床に虹色の模様を描き、まるで古い童話の一節のように幻想的な空気を作り出していた。
(今って夜……よね?)
壁には止まった古時計や、色褪せた絵画、植物を模したアイアン装飾。
そのどれもが時間の感覚を曖昧にさせる。
家具はすべてアンティーク。
焦げ茶の木目が美しいキャビネットや、猫脚のチェア、繊細な刺繍がほどこされたテーブルクロス。
棚にはガラス瓶に詰められたハーブや果実が所狭しと並んでいる。
「物珍しいですか?」
音も無く近付いてきた魔女の声に、ルチアはビクッと肩を震わせた。
「ここに来るお客様は皆そうやって不思議そうに店内を眺めます」
「実際に不思議がってますけど……それ以上にステキなお店だと思いました」
「恐れ入ります。とは言っても、わりと頻繁に内装は変えてしまうのですけど」
「あの、魔女さん」
「なんでしょう?」
「今って夜ですよね? あの……」
「……? ああ、お気になさらず。扉の向こうとこちらとでは、いろいろと異なるというだけです。いろいろと」
心配しないでくださいね、と魔女は指を唇に添えて言う。
「帰る頃にはおばあちゃんになってしまっている、ということはありませんから」
そうしてテーブルの上に置かれたのは、焼き焦げた茶色と金色が折り重なった、美しくも哀しい様相を呈したパフェだった。
「お待たせいたしました。『焼き砂糖と赦しのパフェ』でございます」
「赦し……?」
その言葉を耳に、ルチアの頭にはかつて自分が犯した罪が浮かんだ。
「なら……私には食べる資格はありません……。あの子はもう……お菓子どころか、何も食べられないのに……」
「それは、あなたの中にだけある答えです。赦しを受け入れるかどうかは、一匙を味わってからでも遅くはありません」
さぁ、とルチアは促されるまま震える手でスプーンを握った。
一口目の層を崩した瞬間、軽やかな音と共に、芳しい甘い香りが立ち昇る。
「その層は天焦糖と日の出鶏の玉子を使用したキャラメルプリン。天界の蜜を魔法の炎で焦がしキャラメリゼして、下へと続く層を閉じ込めています。あなたが蓋をしてきたほろ苦い記憶。少しだけ甘味を添えてあげれば、蓋を開く勇気になるでしょう」
ルチアはゆっくりと一匙を口に運ぶ。
甘さの奥の焦げた苦味。
あの子の小さな手を思い出す。
キッチンで笑っていたアンナの声。
「ママ、私ね、お砂糖の匂いって大好き!」
第二層。
「黄昏レモネードのクリームソース。魔界の夕暮れに実るレモンで作った爽やかなソースです。大切な記憶を呼び戻す、少し切ない甘酸っぱさを」
家族で見た夕焼け空が、舌の上に広がった。
空に浮かんだ茜雲、手の平に伝わるたしかなぬくもり。
笑いながら歩いた帰り道。
第三層。
「神蜂の蜜と星松ナッツのムース。千年生きた星松と、天界の蜂蜜が織りなす黄金のマリアージュ。支えてくれたもの、愛された日々が、まだ心に残っている証です」
口に入れると、胸があたたかくなった。
あの子がくれた小さな手紙。笑顔。
色褪せない、褪せてはならない、忘れられない思い出が蘇る。
第四層。
「深月の紅茶ジュレ。紅い月の夜に摘んだ茶葉の風味を堪能ください。言えなかった言葉、伝えられなかった想いが、ゆっくりと溶けていきます」
ひんやりとしたジュレが、喉を通るたびに胸に詰まる。
「アンナ、ゴメンね……。ママが……ママがちゃんとしてれば……。あなたを……」
ポタポタと涙を落としながらたどり着くガラスの器の底。
「奈落糖のビスキュイ。冥府の門前に咲く黒冥樹の樹液を使った、深く濃い甘味。罪を抱いたあなたに、それでも生きていいと伝える締め括りです」
ルチアはスプーンを止めた。
「私は……生きていて、いいの……? 赦されても……いいの……?」
魔女はただ微笑んだ。
「それを求めるのは私ではありません」
魔女が立つ背後。
キッチンの陰に小さな子どもが顔を覗かせたような気がした。
「アンナ……!」
ルチアは息を呑んだが、涙で滲んだ視界にはもう何も映ってはいなかった。
一匙、また一匙。
パフェが消えていくのにつれ、冷たかった胸がじんわりとあたたまっていく。
娘の死は覆らず時は戻らない。
罪は消えず、失ったものは二度と帰ってはこないとしても、娘においしいを教えて、笑顔でおやすみとキスする……ルチアが優しい母だったことは、紛れもなく事実なのだ。
全部が後悔ではなく、全部が罪ではない。
その時初めてルチアは、娘が好きと言った自分を、自分自身が捨てていたことに気付いた。
心の底から赦しを受け入れることはないのかもしれない。
けれど……
「ありがとう……」
ルチアは空になったパフェの器の前で、たしかに救いを得たのだった。
「焼けた砂糖は幸せの香り。焦げた苦味を知ればこそ、示せる道もきっとあるでしょう。次はあなたの手が誰かの明日を照らしますように」
気付けばキッチンの扉は消えていた。
夢見心地の中、舌の上に残った砂糖の甘さが今しがた起こった現実を体感させる。
ふらりと外に出ると、朝焼けの光と冷たい空気が頬を撫でた。
「ルチア」
「あなた……」
すると、そこには離婚した彼女の夫が立っていた。
「こんな朝早くにすまない。けど、どうしても伝えたいことがあって。アンナがいなくなって寂しいのはわかる……けど、僕は」
ルチアはつうっと涙を垂らし、それから小さく笑った。
「あなた、紅茶でも……飲んでいかない?」
ルチアは少しだけ視線を落とし、それからふわりと笑った。
「それと……ビスキュイを焼こうと思うの。よかったら、手伝ってくれない?」
「……! ああ……ああ、もちろん!」
ほんの僅かな、けれど確かなあたたかさを胸に抱いて。
まだ焼けるかもしれない。
誰かにとっての、おいしいを。
それだけを信じルチアは今日を生きる。
昨日よりも少しだけ自分を赦して。




