第68話 決断の草原エルディナ
撤退を指示したザイ・コウガンの前に、異形ながらもどこか人間の面影を残す、二体の悪魔が立ちはだかった。
紅玉のように妖しく輝く瞳を持つ、上級悪魔ナタル。そしてその一歩後ろに控えるのは、中級悪魔ギーブ――無言のまま、しかし圧倒的な存在感を放ちながら、彼は大剣を背に静かに佇んでいた。
ザイは一瞬、その場に立ちすくんだ。
彼女たちから放たれる、ただならぬ気配――それは理屈ではない、本能的な恐怖を喚起するものだった。だが彼はすぐに軍扇を閉じ、腰の剣を抜き放つ。
「退かぬ、下がらぬ、媚びぬ……! この道を塞ぐ者は、誰であろうと斬るのみ!」
高らかに響くその声は、周囲の兵たちの心に一瞬、炎のような勇気を灯した。
だがその熱は、ギーブが無言のまま一歩前へ踏み出しただけで、見る間に凍りつく。
ギーブはゆっくりと、背中に背負っていた巨大な大剣を抜いた。
だがその構えに、攻撃の気配はない。
むしろそれは、斬るためではなく、受け止めるためのものだった。
ザイは目を細め、その意図を探る。
だが、ギーブの表情は一切動かない。
ただ、無言のまま、戦う覚悟だけをその身に宿していた。
「――来い」
低く、腹の底から響くような声が空気を震わせた。
次の瞬間、ザイは雄叫びをあげて突進した。
四つの蹄が大地を叩きつけ、疾風のごとく駆けるその巨体は、まさに戦場の暴風だった。
閃光のごとき剣が、ギーブめがけて振り下ろされる。
その一撃を、ギーブは左腕一本で受け止めた。
大剣と軍扇剣が激突し、金属が軋む音が草原に響く。
鍔迫り合いの末、ギーブは一歩も退かない。
その顔には怒りも、苛立ちも、誇りすら浮かんでいなかった。
ただ、静謐なる意思――まるで、全てを受け止めることこそ己の使命であるかのように。
「……なぜ、攻めぬ! なぜ、こちらを殺さぬ!」
ザイは叫んだ。声には怒りと混乱、そして哀しみの色が滲む。
ギーブは穏やかな声音で答えた。
「あなたは引けない者だ。こちらは殺したくない者だ。……だから受けるのみ」
その言葉は剣よりも鋭く、ザイの胸を突いた。
そしてその沈着な態度に、コウガン王国軍の兵たちは目を見開いた。
敵意をむき出しにしていたのは、王のザイただ一人。
だが、そのザイの猛攻すら、ギーブの大剣はすべて受け流していた。
「国王様……」
誰かがつぶやいた。
それを皮切りに、兵たちの間にじわりと降伏の空気が広がっていく。
副将ライがザイの傍らに駆け寄り、小声で訴えた。
「陛下、どうか……ご自分を、お労しください。兵たちはもう限界です。もしこのままでは……」
「黙れ、ライ……」
ザイは吐き捨てるように言った。
その瞳は焦点を失い、怒りと焦り、そして何より怖れが渦巻いていた。
「我らは誓ったのだ……このトママイにおいて、どの族にも屈せぬと! それが……それが、我らの誇りだッ!」
必死の形相で、なおも剣を振るうザイ。
だが、剣筋は次第に鈍り、呼吸は荒れ、足取りは重くなっていった。
ギーブは、その変化を見逃さなかった。
じっと、ただじっと、その姿を見つめる。
「もう、よせ」
その言葉は、斬撃よりも重く、静かにザイの心を押し包んだ。
そして――
「――父上ッ!」
草むらを割って、二つの影が駆け込んできた。
先頭を駆けるのは、ザイの息子、ナム・コウガン。
その背後には、弓を構えた側近ユラが続いていた。
ナタルはそれを見て、微かに口元を緩める。
「来たか……グレウスの言葉通りだな」
ギーブもまた、剣を下ろし、一歩引いた。
もはや戦う意志はないと、その背で語るように。
ザイの剣が中空で止まり、そして震える。
「ナム……お前、生きていたのか……!」
その言葉は、父の威厳ではなく、一人の男の、親としての慟哭だった。
息を切らしながらナムは父に駆け寄り、膝をついて支える。
「父上、もう……やめてください。今は、退く時です」
その声には、嘆きと祈りが込められていた。
ザイはわずかに身を震わせ、やがて――剣を、静かに地面へと落とした。
それは敗北の音ではなかった。
誇りと命を護るための、静かな選択だった。
風が、エルディナ草原を渡っていく。
それは緊張をほどき、誇りを撫で、敗北の痛みと共に、ほんのわずかな希望を運ぶ風だった。




