第67話 ザイ・コウガン最後の矜持
コウガン王国軍とシュンカク王国軍が激突した戦場、エルディナ草原の西に――二つの影が駆けてきた。
コウガン王国の王ザイ・コウガンの息子ナムと、その側近で薄紅の衣を纏った弓使いユラ。彼らはついに、北方戦線の西端へとたどり着いた。
眼下に広がる戦場は、もはや均衡を失っていた。
かつて精緻な陣を敷いていたコウガン王国軍の兵たちは、今や無秩序に散り、中央陣地はシュンカク王国軍の猛攻によって押し込まれ、コウガン王国軍本陣近くにまで退いていた。
遠目に見ても、戦況が一方的に傾いているのは明らかだった。
「……急がねば、父上が危ない」
ナムは焦燥を胸に、大地を蹴って駆け出す。
その隣で、ユラは弓に手を添えながら周囲の気配に目を光らせる。そしてその刹那――進路を遮るように、一つの影が現れた。
「やあ、随分と急いでいるな、ナム」
「――グレウス!」
姿を現したのは、灰色の外套を纏い、片目に眼帯をした男。サーティーンに仕える配下の一人、グレウスだった。
かつてナムとドロワと共に、奴隷制度の是非を語り合った旧知の仲――ただの敵味方という枠では語れぬ、奇妙な信頼がそこにはあった。
「無事でよかったな。だが、ここから先は地獄だ。正面突破は不可能だぞ」
「分かってる……だが、どうしても父に会わねばならん。頼めるか?」
ナムの真っ直ぐな眼差しに、グレウスは小さく息を吐き、わずかに口元を緩めた。
「……まったく、お前は無茶ばかりだな」
そう言うと、彼は足元の草をかき分け、草で隠されていた地下トンネルへの下りのスロープの先にある人の高さほどある金属の扉の取っ手を引く。
キィ、と軋む音を立てて扉が開き、その奥には、闇の中へと続く広い通路が口を開けていた。
「これは新交易路の地下トンネルだ。サーティーン様が密かに掘らせた抜け道さ。君たちを本陣後方へ導く」
「サーティーン様……一体どんな方なんだ」
「いずれ会えるだろうさ。……借りはまた今度返してもらう。さあ、時間がない」
ナムとユラはグレウスに続き、湿った地下の闇へと身を滑り込ませた。
その足音は静かに、しかし確かに、戦の天秤を揺らす鍵へと近づいていく。
地上では、コウガン王国軍の戦況がもはや致命的なまでに悪化していた。
戦いが始まって五日目の昼――コウガン王国軍はすでに兵力を三分の一に削られ、生き残った兵たちも疲労と絶望に囚われていた。
一時は押し返した中央部も、いまや敵の楔が深く突き刺さり、倒れた者たちの上に血塗れの旗が踏みつけられていた。
本陣まで火の手が迫るなか、ついにザイ・コウガンは撤退の決断を下す。
「……王都トルカへ退却の準備を。全兵、集結せよ」
副将ライが慌ただしく命を飛ばすそのとき――
本陣後方の大地の下から、鈍い地鳴りが響いた。
「……何だ……!?」
突如として地面が盛り上がり、轟音とともに土煙が舞い上がる。
その土の裂け目から姿を現したのは、異形の一団だった。
先頭に立つのは、しなやかでありながら凛とした気配を放つ女――上級悪魔ナタル。
紅玉のように輝く瞳、どこか人間らしさを残すその顔は、ただの敵には見えなかった。
その背後には、背が高く筋骨逞しい男――中級悪魔ギーブが控え、地下から続々ミノタウロスとハイオークの兵士たちが姿を見せた。
ギーブの巨大な大剣を構えるその姿からは、殺気と共に確かな意思が滲み出ていた。
「……人間? いや、悪魔か……?」
ザイが低く呟くと、ナタルが一歩前へと進み出る。その声は、思いのほか穏やかだった。
「我らは、ただの悪魔ではない」
ギーブが静かに頷く。
ナタルの紅い瞳が、真っ直ぐにザイを射抜く。
「ここから先には、行かせない。これは、サーティーン様からの命令だ」
ザイは軍扇を閉じ、ゆっくりと腰の剣を抜いた。
「貴様らが何者であれ――我が兵に手出しはさせぬ、それが我が矜持だ」
だが、その背後に控える兵たちからは、気力が失われつつあるのが見てとれた。
王都トルカへの退路を塞がれ、追い詰められた彼らは、この先に待つ地獄を肌で感じ始めていた。
そして、地の底――。
ナタルたちが通ってきたその地下トンネルを、ナムとユラ、グレウスが今まさにひた走っていた。
この三人の到着が、この戦の流れを変える一手となるのか、それとも……。
その答えは、まだ誰にも分からなかった。




