第57話 引かれぬ引き金 戦前の緊張
ケンタウロス族の国々が連なるトママイ連合国は、再びざわめいていた。
大きな戦は、まだ始まっていない。
だが、すでに風は血の匂いを含み、空には鈍い黒雲がたれ込め始めていた。
連合国の北と西――ケンタウロスの二大部族、ジンビ族とコウガン族は、長らく人間奴隷制度の存続を主張してきた。しかし、その供給元であった人間の国・ムーカワ国が奴隷制度そのものを廃止したことで、労働者の枯渇により経済は急速に衰退。
もはや背に腹は代えられず、彼らはついに共闘の道を選んだのだった。
鉄鉱と奴隷の流通が断たれ、かつて交易で潤っていた両氏族は、今では食糧と資源の確保すら困難となり、日々を耐えるしかなかった。
「……ムロロンとムーカワ、そしてシュンカクまでもが奴隷制度を手放し、我らの根幹を否定した」
ジンビ王国の王、ガリ・ジンビは炎を見つめながら唇を噛みしめる。
「このままでは、我らは滅びる」
隣に座していたコウガン王国のザイ・コウガン王は、黙って深く頷いた。
彼らが手を組んだのは、正しさのためではない。
生存のためだった。
そして今――
その標的は、シュンカク王国、さらに東方のムロロン王国、ムーカワ国へと定まりつつあった。
ジンビ、コウガン二国連合と、シュンカク、ムーカワ、ムロロン三国連合との戦争。その引き金は、今まさに引かれようとしていた。
そして今、ムロロン王国では、ケンタウロス社会の変革の余波が、確かに根を下ろしつつあった。
その象徴たる一人こそ――ナムである。
かつてコウガン族の王子でありながら、奴隷制度の虚構と腐敗を見抜き、自らの意志で国を出た男。
いまやムロロン王国の軍に加わり、王都から西に展開されたハイオーク部隊にて、弓隊の隊長を務めていた。
また彼を慕い、コウガン王国から数十名の若者たちがグレウスの手引きにより、ムロロンに逃れてきていた。
「風が変わる……上に立つ者が変わったからだ」
そう語る彼の背は、もはや逃げていた者のそれではなかった。
訓練されたハイオークたちは、ナムの的確な指示と無駄のない戦術に、静かな敬意を払っていた。
ムロロン王・ガルマもまた、ナムに信を寄せ、彼を反コウガン戦線の象徴的存在として位置づけようとしていた。
そのガルマ王と女王ヤンナのもとに、一人の人間の男が歩み寄る。
ドロワ――かつてムーカワ国で奴隷商を営んでいたドクワの息子。
影に生き、いまやトママイ連合国全体の経済圏を揺るがす存在となりつつある男。
「……グレウスから紹介を受けております。遅ればせながら、ご挨拶を」
礼節正しく、それでいて堂々としたその姿に、ヤンナ女王は目を細めた。
「奴隷商の息子が、こうも変わるとは……。国とは、やはり変化を受け入れる土壌なのですね」
ドロワは笑みを返さず、まっすぐに語った。
「私は、制度の中で生まれ、制度の中で父を失いました。だからこそ、その制度を壊す力ではなく、仕組みを作りたいのです。戦争ではなく、経済で未来を決める国々を」
ガルマ王は静かに頷いた。
「ムロロンもまた、変わらねばならない。ハイオークも、ミノタウロスも、人間も、ケンタウロスも――対等に生きる交わりの形を模索せねばならん。その上で……ジンビ、コウガン連合とは、戦わねばならないようだ」
会談は、戦争の前に、経済で圧すという構想へと進んでいった。
ヤンナは、かつてのムーカワ奴隷市場を、新たな「自由市」として整備し、ドロワの商会を中心とした多国間交易網を築く構想を提案する。
「戦ではなく、貨幣と協定で敵を包囲するのよ。あなたのやり方を、各国に試してみたい」
ドロワは静かに一礼した。
「ならば、あらゆる見えざる道をつないでみせましょう」
だが、その言葉の裏で――
すでに別の見えざる道を完成させた者がいた。
それが、サーティーンである。
彼は、地下トンネル網を密かに完成させ、トママイ連合国の地中深くへと、暗き触手を伸ばしていた。
その動きを見届けたナタルは、かすかに呟いた。
「……ドロワが築くのが新秩序なら、サーティーン様の作るものは、無秩序の循環……」
世界は二極化するように、正気と狂気の秩序が、トママイの地に網を張り始めていた。
そして、光国側――
新たに勇者パーティーが結成され、各地を巡っているという噂が流れ始めた。
それは、希望か。
それとも、災厄か。
静寂の中、鼓動だけが高鳴っていた。
次なる風は、もうすぐそこに――。




