第56話 極悪魔ベルゼブブとサーティーン
光国側より勇者誕生の噂が届いたのは、サーティーンにとって有益な情報で、彼は即座に動いた。
ヒラーク城の地下から世界中に張り巡らされた密やかな通路。その奥底、かつて忘れられたシールド城塞の地下水路を音もなく抜け、濁流の向こうにひっそりと開いた出口から地上へと身を現す。
そこはシールド城塞外の北側、乾いた風が吹きすさぶ断崖の上。見下ろせば、岩肌むき出しの絶壁が遠くの大地を睥睨している。空には千切れ雲が流れ、陽光がまだらに地表を照らしていた。
この場所を訪れる者は少ない。
だが。
風の向こうから、一歩、また一歩と、靴底が岩を叩く音が近づいてくる。
黒衣を纏い、艶やかな黒髪を風になびかせた男が姿を現した。優雅にマントを翻しながら歩み寄るその所作には、警戒も、緊張もない。ただ、余裕と軽薄、そして確信が滲んでいる。
ナンバーⅡ、暴食の極悪魔――ベルゼブブ。
その笑みは常に何かを隠している。
――いや、隠す必要すらないと知っている者の顔だった。
「おやおや、こんな辺鄙な場所にまで出張とは、ルシフィス様、いや……今はサーティーン様、でしたか。復活、おめでとうございます」
その瞬間、サーティーンの周囲の空気が変わった。
沈黙のまま、右袖の奥に仕込まれた黒刃が、わずかに姿を覗かせる。風が触れ、微かな金属音が鳴った。
「……殺す気なら、前置きは不要だな」
低く、乾いた声。
明確な敵意と、磨かれた殺意。
だがベルゼブブは一切動じない。にやけた笑みを浮かべたまま、両手を肩の高さまで掲げてみせた。
「まぁまぁ。そんなに構えないでください。
あなたと正面衝突するほど、私は愚かではありませんよ」
視線が、ちらりとサーティーンの右袖――刃の位置へ流れる。
「今のあなたは、瞬間的な制圧力は一級。
ですが……長引けば、魔力の消耗が先に来る。
上級悪魔を少し上回る程度、でしたよね?」
その一言に、サーティーンの殺気がわずかに歪んだ。
(――知っている、だと?)
刃は収めない。だが、殺意は一段階だけ沈む。
ベルゼブブは、それを見逃さなかった。
「ね? お互い、無駄な消耗は避けたいでしょう? あなたがご存知の通り、私は持久力には少々自信がありますからね...…」
軽口の裏に、確信がある。
単独で現れた理由――それが、今ははっきりと見えていた。
「……話せ。何の用だ」
「単刀直入に言えば、あなたに釘を打ちに来たんですよ」
ベルゼブブは肩をすくめ、笑みを深くする。
「最近、地上の人間や亜人たちがやけに統制され始めている。《地下の統率者》などという異名まで出回る始末。正直、放置するには少々……影響力が過ぎますので……」
無遠慮な視線がサーティーンを測る。
そこには、敵意よりも評価があった。
「そして、もうひとつ」
声が、わずかに低くなる。
「――勇者と、魔王には、手を出さないでいただきたい」
サーティーンの眉が、微かに動く。
感情ではない。思考の反応。
「理由を聞こう」
「勇者王国にて、十五の少年が勇者に選ばれました。私はその旅を見守る契約を結んでおりましてね」
一拍置いて、ベルゼブブは楽しげに告げる。
「なお、私の契約主は――魔王カレンです」
その名が出た瞬間、サーティーンの思考が加速する。
魔王カレン。
魔界の勢力均衡、地上干渉、そして――加護。
「……勇者と魔王、両方に首を突っ込む気か」
「ええ。正確には、加護に、ですが」
隠そうともしない本音。
ベルゼブブは、奪取を狙っている。
「あなたに割り込まれると、少々面倒でしてね。勇者の加護、魔王の加護――どちらも、繊細な獲物ですから」
サーティーンは冷ややかに言い放つ。
「そのために、俺に指図しに来たと?」
「いいえ」
即答だった。
「取引です」
ベルゼブブは指を一本立てる。
「暗黒神様の命により、あなたが望む地上の悪魔たちの掌握――そこには、私もアバドン様も一切干渉しない」
もう一本。
「その代わり、あなたは勇者と魔王に触れない。私たちの狩りを、邪魔しない」
空気が張り詰める。
(情報が正確すぎる……)
サーティーンは表情を変えぬまま、内心で舌打ちした。
(俺の魔力の底、動向、目的……どこから嗅ぎつけた? 内部か、それとも――)
だが、答えを探すには、この場は短すぎる。
(……今は、利を取る)
短く息を吐く。
「いいだろう。その代わり、俺の勢力に一切手出しするな」
「ええ、喜んで」
ベルゼブブは優雅に頭を下げる。
「魔界の契約に則り、私は干渉しないと誓いましょう。あなたも――誓ってくださいますね?」
サーティーンは無言で両手を掲げる。
右手は天へ、左手は大地へ。
古の契約印が、虚空に刻まれる。
言葉よりも重く、逃れられぬ誓約。
ベルゼブブもまた、同じ形を結ぶ。
微笑みを崩さぬまま、だが動きだけは正確に。
その瞬間、断崖を吹き荒れていた風が、ふっと凪いだ。
――契約は成立した。
風が止んだのではない。
止められたのだと、サーティーンは直感した。
ベルゼブブは、微笑みを崩さぬまま一歩退く。
「これで、互いの邪魔は無しですね」
その声音には、安堵よりも最初から結果を知っていた者の余裕があった。
サーティーンは刃を完全に袖へ戻し、視線を細める。
「……ずいぶん詳しいな? 俺の魔力の残量、動き出す時期、狙っていた獲物まで」
空気が、再びわずかに軋んだ。
ベルゼブブは肩をすくめる。
「情報を集めるのは、私の得意分野でして」
「それだけで説明がつく情報量じゃない」
低く、断定的な声。
「まるで――内側を見られている」
一瞬。
本当に一瞬だけ、ベルゼブブの笑みが固定された。
だが、すぐに元の軽薄さへ戻る。
「疑り深いのは、あなたの美徳ですよ」
それ以上、踏み込もうとはしない。
踏み込ませない壁が、そこにはあった。
(……やはりな)
サーティーンは内心で結論を下す。
(暗黒神。直接ではないにせよ、どこかで線が繋がっているか)
だが――
(今は、それでいい)
彼は視線を断崖の向こうへ向ける。
勇者と魔王。
ふたつの加護は確かに魅力的だが、自分が動く必要はない。
(ベルゼブブとアバドンに任せておけばいい。あいつらが表で踊っている間に――)
取るべきは、もっと根深いもの。
極悪魔六体。
上級悪魔六体。
中級悪魔六体。
デーモンコアに刻まれる番号こそが、真の支配だ。
「……釘は、確かに受け取った」
ベルゼブブは軽く手を振る。
「そう言っていただけて何よりです。
では、またいずれ――」
振り返り際、意味深に言葉を添える。
「暗黒神様も、あなたの働きには大いに期待しておられますから」
その背が闇へ溶ける。
残されたサーティーンは、静かに呟いた。
「……やはり、すでに見られているか」
だが、恐れはない。
むしろ――口元に、僅かな笑みが浮かぶ。
「ならば、こちらは盤面そのものを掌握するまでだ」
ヒラーク城。
闇の拠点へと踵を返す。
(勇者と魔王は餌。本命は――悪魔そのもの)
断崖には、再び風が吹き始めていた。
それはもう、契約の証ではない。
次なる争いの前触れだった。




