第53話 交易商人ドロワ 後編
夜が明け、薄曇りの空が静かに交易所を照らしていた。
焦げた木材の匂い、剥がれ落ちた屋根瓦、風にかすかに混じる薬品の残り香。だがそこに、嘆きや絶望の気配はなかった。
人々は、黙々と復旧作業に取りかかっていた。
その中心には、ドロワの姿があった。
黒いマントを脱ぎ捨て、汚れた作業服に身を包んだ彼は、足を負傷した若い労働者の腕を担ぎ、避難用の地下室へと運んでいく。かつて奴隷と呼ばれていた者たちと、何の隔てもなく同じ土を踏みしめていた。
「……何も言わず、耐えてくれたことを誇りに思う。君たちは、もう奴隷などではない」
その言葉に返事はなかった。だが集まった者たちの眼差しは、従属する者のそれではなかった。
戦火をくぐり抜けた者にしか持ち得ない、静かな誇りと揺るぎない意志――それが、そこに確かにあった。
ドロワは負傷した者に対し、帽子を取り一礼して言葉を贈った。
「この抵抗が信頼と責任のために我々が選び取った道だと、私は信じている。戦ってくれてありがとう!」
そして三日後――
捕虜となっていたジンビ族三名のうち二名が、ムロロン王国へと引き渡されることとなった。これは一見すれば外交的処置にすぎなかったが、モンテの暗躍を社会に仄めかす意図が込められていた。
残る一名、重傷を負った斥候の少年だけは、ドロワの命により隔離施設で保護された。
「名前は?」
「……タタク。オレは……命令で、お前を殺せと言われただけだ。なぜ俺を助けた……」
「そうだな、君を見てピンって来たんだよ。乗り心地が良さそうだなと」
「なんだそれ? バカにしているのか?」
「いや、案外勘ってやつは宛になるもんだよ。君は命令に忠実にしていた、まさに死ぬ覚悟で戦いを挑んできた。その覚悟を私のために使って欲しいと言ったら、君はどうする?」
「……俺は、俺には賢さはない体力があるだけのバカだ。だから主が……俺には主が必要だ」
「そうか……ならば君は、私と契約し、私の部下となり生きる理由を与えてやろう。まずは体を癒すことからだ」
その口調に、憐れみはなかった。ただ、確かな覚悟があった。
ドロワはもはや、モンテの掲げた旧き秩序の継承者ではない。
経済を動かす者として、自らの信念を貫こうとしていた。
その頃――
高空の彼方から、メッザの街をじっと見下ろしていた者がいた。
極悪魔サーティーン。
感情という概念を捨てたその身に、怒りや喜びの類はない。
だが、ひとつ――確かに「関心」だけはあった。
「……ほう。ドロワか。モンテの旧体制を内側から腐らせ、外からも燃やすつもりとは……面白い」
唇がかすかに歪み、虚ろな笑みが浮かぶ。長く細い指が空を切るように動いた。
サーティーンにとって、モンテはすでに包囲が完成している駒にすぎなかった。
だが、ドロワは違う――モンテの影を踏み越えようとする不確定因子だ。
「人間は、時として悪魔よりも、ずっとしぶとく、そしてしたたかだ……だからこそ、興味が尽きない」
彼の背後で静かに宙に浮いていたナタルが、進み出て報告する。
「サーティーン様。モンテが第二の砦都市の防衛を強化しつつあります。ジンビ族との連携も……」
「構わない、泳がせておけ。ジンビ族の王が反逆の種として花開くか、あるいは新たな独裁者となるか……その芽がどう育つかのほうが興味深い」
その目がゆっくりと細まり、宙にかすかな歪みが生まれる。
「それに……ドロワの中には、父の死を超えた意志がある。親を超える存在――俺は、そういう者を見逃さない」
サーティーンは、ゆっくりと振り向き、裂けるように開いた冥界へと、その姿が吸い込まれていく。
それは、単なる監視ではなく、観察でもなかった。
――秩序を打ち壊し、新たに成り代わろうとする者が、この地に芽吹こうとしている。
サーティーンのまなざしは、その「始まり」を確かに見届けていた。
だがそこにあったのは、好意でも敵意でもなかった。
それは今はただ――
現状を愉しむ者の、冷たいまなざしだった。




