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第49話 ナム・コウガンの決意 中編

 コウガン王国、王都トルカの夜は、いつになく冷え込んでいた。

 澄んだ空気は皮膚を刺すように冷たく、北の風は静かに、しかし確かに城壁を撫でていく。

 その風は、背を押すようでもあり、背を断つようでもあった。


 王都の東門裏――もはや使われなくなった廃井戸の前に、一人の青年が立っていた。

 コウガン族の王、ザイ・コウガンの息子、ナム・コウガン。

 しかし今、その名は、忌むべき裏切り者として都中に知れ渡っていた。


 父王による放逐命令が発されたその日から、忠義を誓ったはずの従者たちは一人、また一人と姿を消していった。

 誇り高き馬上の民も、血縁すらも、ナムを見限った。


――それでも、彼は独りではなかった。


「……遅かったな」


 低く、落ち着いた声が闇に溶けた。

 井戸の陰から現れたのは、黒衣を纏った男。

 仮面を半ば下ろし、その表情の奥に何を秘めるか分からぬまま、彼はナムを見つめていた。


 グレウス。

 サーティーンの密使にして、各地を彷徨う観察者。


「……父の軍が動き出した」

 ナムはその眼を逸らさぬまま言った。

「おそらく明朝には、僕の首に賞金がかかる」


「だから、迎えに来た」


 グレウスは静かに、しかし迷いのない手付きで覆面と外套を差し出した。

 それは名を捨て、過去を断つ者の装束だった。


「ムロロン王国までの最短ルートは、遊牧境を抜け、《東の荒れ地と樹海の間》に入ること。だがそこは――」


「魔族の領地だけど無人地帯だ」

 ナムは食い気味に答える。

 外套を身にまといながら、口元にかすかな決意を浮かべた。


「いい判断だな」

 グレウスは満足げにうなずき、視線を前へ向けた。

「その地は、ジンビ族が魔物狩りで時折通るが、今はまだ闇の夜ではない。抜けきれば、ムロロン国境監視所までは四日……」


 そう言いかけて、ふと足を止めた。


「……ナム、今から君は誰でもない者になる。国を失い、家族を捨て、名を奪われる。その道の先に、君は本当に守りたいものを見出せるか?」


 問いは穏やかだったが、決して軽いものではなかった。

 それでも、ナムの返答は迷いのないものだった。


「コウガン王国が力で支配されている限り、僕の声は誰にも届かない。ならば、剣でも力でもない方法で……もう一度、立ち上がってみせる」


 青年の瞳に宿る光を見て、グレウスは口元をわずかに綻ばせた。

 そこにあったのは、哀れみではない。希望でも、同情でもない。

 ただひとつ、観察者としての興味と、わずかな期待だった。


「……いい目だ。その目が曇らぬうちに、見届ける者が必要だな」


「君が?」


「私は観察者だ」

 グレウスは夜の風に黒衣をなびかせながら言った。

「君が英雄になろうと、哀れな亡命者に終わろうと、それを記録するのが私の役目」


 ナムは静かに頷く。

 その目は遠く、まだ見ぬ未来を見据えていた。


「なら、見ていてくれ。僕が未来を掴む瞬間を」


 

 それから四日後。

 氷岩山脈の東端、ムロロン王国とシュンカク王国の境界に築かれた監視所。

 寒風が吹きすさぶ石造りの砦の門前に、黒衣の青年が現れた。


「誰だ! 名を名乗れ!」


 ミノタウロスの門兵たちの声が鋭く響く。

 その声に応えるように、ケンタウロスの青年は覆っていたマントを外し、まっすぐに前を見据えた。


「僕はコウガン族、元後継者――ナム・コウガン。放逐されし者にして、共存を求める者。ムロロン王国に亡命を希望する」


 その名が発せられた瞬間、門兵たちはざわついた。

 だがすぐに奥から、宰相ルモルンの側近を名乗る男が現れた。


「……ムロロン国王ガルマの命により、お前を保護する。だが忘れるな。ここはコウガン王国ではない。理想ではなく証明が求められる地だ」


 ナムは静かに、だが揺るぎない声音で答えた。


「承知しています。僕は、信じるためにではなく、闘うために来たのです」


 その眼差しに、もはや迷いはなかった。

 それは――国を越え、血を越え、理念で動く者の、覚悟の光だった。

 


 その報せは、すぐに冥界にも届いた。

虚空にて佇む一人の男、サーティーン。

 全てを見下ろすその存在は、報せを聞きながら、満足げに目を細めた。


「ふふ……いいぞ、グレウス。駒がしがらみの檻を抜け、ようやく舞台に立った」


 仄暗い空間で独りごちる声は、まるで未来を見通すかのようだった。


「さあ、誰が次の王になるのか……見せてもらおう」


 彼の瞳に映るのは、まだ誰も知らぬ、新たな歴史の始まりだった。



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