第46話 交易都市メッザ
それは、ある取引の朝だった。
ジンビ族の支配する、王都ドゴバルの北東部にある交易中継都市。ここは、東にシュンカク族が治める国境に近く、また北にはコウガン族の国境も近くにあり、さらに三国中心のタリマの丘から南西に位置するこの都市は、三勢力の交差点として重要な位置を占めていた。
各部族の市場、倉庫、宿舎が集まり、商人たちの往来が絶えない。もともとは中立地帯の名ばかりの停泊地にすぎなかったこの地を、近年、交易商人のドロワが法整備と都市基盤を整えたことで、名実ともにトママイ最大の交易都市の一角へと成長していた。
特に注目されたのは、「合法労働者による小規模人材派遣」のモデルケースとしての取り組みだった。奴隷とは異なる労働力として人間を扱うことで、ドロワは悪魔モンテの遺した負の遺産から脱却を図っていたのだ。
だが、その朝。
広場の中心――聖火を象徴する白亜の塔。その足元に、何かが吊るされていた。
最初に見つけたのは、パンを焼くために早朝から窯に火を入れていたパン職人だった。小さな悲鳴が、すぐさまジンビ族の衛兵たちを呼び、そして町中へと波紋のように広がっていった。
風に揺れていたそれは、一人の男の死体だった。
男は、商隊仲介人の一人。ドロワがかつてドクワの遺産を整理する際に最も信頼を置いた人物で、数多くの契約と和平交渉の裏方を担ってきた、まさに右腕と呼ぶにふさわしい存在だった。
だが、その身体は無惨だった。口は大きく裂け、喉までえぐられていた。両手の指は、一本ずつ関節を抜かれ、骨を砕かれていた。そして胸には、焼け焦げた黒い印が刻まれていた。
それは悪魔文字で――こう刻まれていた。
「焼けた理性はもう使えぬ」
その言葉を見た瞬間、ドロワの仲間たちは悟った。これは、モンテからの宣告であると。
奴隷制度を否定し、新たな労働の形を打ち立てようとするドロワへの、明確な意思表示。冷静と論理を象徴とする者の命を奪い、「理屈など意味をなさぬ」と、かつての支配者が突きつけた血のメッセージだった。
沈黙の中、ドロワは報を受け、会議の途中で席を立った。一言も発さず、周囲の者を振り切って、彼はメッザにある自宅の地下へと向かった。
封鎖された貯蔵庫の奥――厚い鋼鉄扉に守られた、誰も立ち入ることのない密室。
その部屋の中、ドロワは独り座り込み、長い沈黙の時間を過ごした。
その表情に浮かんでいたのは、怒りでも悲しみでもなかった。
ただ、恐怖だった。
彼が頼っていた男は、武器を持たず、命を奪わず、ただ数字で人の命を守ろうとした。その冷静さと論理性は、ドロワの商業理念の象徴だった。モンテは、そんな彼を選んで殺した。
貴様の理屈は焼けて使えぬ――それは、支配を取り戻そうとするモンテの、冷酷な宣戦布告だった。
数日後、ドロワは沈黙を破り、交易都市メッザにおける新たな条項を発表した。
『あらゆる労働力契約において、同意書の不在は無効と見なす』
『奴隷取引に加担した者は、今後、我が交易圏内の資産を一切凍結する』
メッザにおける労働と奴隷の境界を明確にするための宣言だった。
それはモンテへの明確な返答だった。
だが、その一連の動きを、グレウスは静かに見つめていた。
暗き帳が降りるころ、彼はサーティーンのもとを訪れ、低い声で報告をした。
「交易商人のドロワ、動きました。血に怯えぬ代わりに、数字を刃とする男です。……ですが、その冷静さの下に、初めての怒りが芽生えています」
サーティーンは報告を聞いて、小さく笑った。
「……いいだろう、グレウス。ドロワと密かに接触し、奴隷制度の改革についての話を進めろ。そして、北のコウガン族のナムとやら――奴とも密会の席を設けるんだ」
「かしこまりました」
翌夜――
交易都市メッザの西端、廃屋となった倉庫の裏手にて。
月の光も届かぬ地下の小部屋。湿った石壁と一本の蝋燭。その仄暗い空間で、グレウスとドロワが静かに対峙していた。
「……取引の前に、名乗らねばなるまいな」
フードを外し、静かに顔を見せたグレウスが言った。
「私の名はグレウス。極悪魔サーティーンさまの従者にして、交渉を司る者だ」
それに応じて、ドロワも軽く頭を下げる。
「ドロワ。交易商人。……亡き父の跡を継ぎながらも、秩序ある商業を模索している者だ」
しばしの沈黙の後、グレウスが口を開いた。
「まず、安心してほしい。サーティーン様は、悪魔モンテをいずれ処分なされるのと、君の父――ドクワのことは、あくまで過去の存在と捉えておられます。君自身、その影に縛られる者とは見ていない。ムーカワも、ムロロンも、同様の姿勢をとっている」
ドロワの瞳がかすかに揺れた。
「……そうか。ならば少しは、荷が軽くなる」
「君の歩もうとしている新たな交易に、我らは期待を寄せている。とくに、奴隷制度に依存しない形での流通網とその維持構造にな」
グレウスは一拍置いて続けた。
「……ただし、道は平坦ではない。君の背中を狙う者も現れるだろう。だが、だからこそ今、我々のような 後ろ盾を持つべき時だ」
そう言って、グレウスは懐から封書を取り出した。
「これは、コウガン族のナムが発した密会の同意書。明後日、第三の宿営地にて。名目は交易見本市への立ち会いだが……裏では、奴隷制度撤廃を前提とした連携の会談が予定されている」
ドロワは、それを黙って受け取った。蝋燭の炎に照らされたその表情には、怒りも、迷いも、そしてかすかな希望の光もあった。
「……後ろ盾、か。私は、常に独りで決めてきた。だが今は……変わるべき時かもしれないな」
その言葉に、グレウスは静かにうなずいた。
「君の改革に、風は吹いている。背を向けるな。進め、ドロワ」
静かなその声は、まるで夜の闇に灯るひとつの炎のように、確かな熱を持っていた。




