第44話 裂け目に種を撒くもの
トママイ連合国北にある、コウガン王国、王都トルカ
それは冷えた風が吹く砦の都市。
穀物と保存食の集積地として栄える一方で、外敵と内部抗争への備えが常に意識される、計算された要塞だった。
その一角、古代様式の石塔の陰に、一人の男が立っていた。
グレウス――サーティーンの部下であり、今は仮面をまとい、交易仲介人としてトルカに潜伏していた。
彼が目をつけていたのは、ナム・コウガンという青年。
コウガン族の王、ザイの息子にして、奴隷制度への疑問を口にする、危うい理想主義者。
ナムは純粋だった。
一度ムーカワで人間たちへの奴隷教育を視察したことが、彼の心を大きく変えた。
――「彼らは、ただ生まれただけで商品とされたのだ。あれが秩序なら、我々の文明とは何だ?」
この発言が、部族内で大きな波紋を呼ぶのに、時間はかからなかった。
王族の発言にしてはあまりに危うく、だがどこまでも真っ直ぐだった。
今、グレウスはその揺れる魂を焚きつけるために動いていた。
ある夜、トルカ郊外の訓練場跡地。
満月の光を背に、ナムが馳せていたところに、グレウスは現れる。
「……あなたは?」
「ただの旅の商人です。あなたに、少しだけお伝えしたい話がありまして」
グレウスは、丁寧に姿勢を低くしながらも、言葉には仄かに毒をにじませた。
「ムロロン王国とシュンカク王国の新しい秩序――あれをどう思いますか?」
ナムは警戒しつつも、その言葉に反応する。
「正しい理想だ。けれど、我が部族はそれを否定している。私には、父を説得する力がない……」
「説得する必要はありませんよ、ナム様。変革というものは、決して上からは始まらない。下から、草の根から……あなたのような若者の心から始まるのです」
ナムの表情がわずかに揺れた。
「……あなたは、何者なんですか?」
「真実を知る者。……そして、あなたに未来を選んでほしいと願う者です」
その夜、グレウスはナムに一枚の書簡を渡す。
そこには、ガリ王とザイ王の密約、そしてザイ王が黒市を通じて奴隷売買に関わり続けている証拠が書かれていた。
ナムはその場で動揺を隠せなかった。
「これは……父が……」
「このまま知らぬふりをして、未来の王として生きるか。あるいは――あなたの正義を通すか」
グレウスは冷たく言い残し、闇へと姿を消した。
その夜以降、ナム・コウガンの中に確かな亀裂が生まれた。
信仰と理想、父への忠誠、そしてコウガン族の民の未来――
彼は一人で抱えきれぬほどの矛盾を背負い始めていた。
やがて数ヶ月後、ナムは密かにある文書をシュンカク王国の和平派へと届ける。
それはジンビ王国の武器庫の位置、奴隷収容区の地図、そしてザイ・コウガンの裏帳簿の写しだった。
そして、そのすべてを裏で操っていたのが――グレウス。
サーティーンの意志のもと、コウガン族の内部に裏切りと目覚めを同時に植え付けた者である。
冥界の屋敷に戻ったグレウスは、静かに微笑を浮かべた。
「……あとは、裂け目が育つのを待つだけ」
真実という毒は、ただ一滴で十分だ。
それがどれほど正しい毒であっても、秩序を壊すには足りる。
その先に立つのが誰か――グレウスには興味がなかった。
彼の任務は、サーティーンの世界を作るため、ケンタウロスたちの心を動かすことだったのだから。




