第39話 アザイルとサーティーン
かつて天上の律を司り、神の意志を代行していた存在。熾天使アザイル――かつて神の御使いだった者。
人間に恋をし、神に嫉妬して堕天した彼の足元には、燃え尽きたかのように転がる骸がひとつあった。デーモンコア〈リムス〉に魂を喰われた男、ドクワの成れの姿であった。
その傍らに立つ女は、鋭い視線をアザイルに向けていた。
ナタル、ムーカワ国の政務を司る、冷厳なる上級悪魔。その瞳は、死者を悼むよりもなお深く、目前の異端を計るように細められる。
「ルシフィス様に……会わせて欲しい」
アザイルの声は低く、けれど揺るがぬ決意を秘めていた。ナタルはその名に、わずかに眉を動かした。
「……ルシフィス、とおっしゃいましたか?」
その名を口にする者は、もはや世界にどれほど残っているだろう。
かつての最高位天使。今は極悪魔サーティーンとして、冥界の玉座に君臨する存在。
だが、彼の本名を記憶する者は、限られた者たちのみ。ナタルの脳裏に、その名と姿が鮮明に浮かんでいた。
彼女は、慎重に言葉を選んだ。
「……確認を取ります。少々お待ちを」
そして静かに目を閉じ、念話を通してサーティーンと繋がる。返答は、すぐに届いた。
『冥界へ連れて来い』
冷たい響きの中に、確かな興味と、何か懐かしさのようなものをナタルは感じた。
再び目を開いたナタルは、アザイルに向き直る。
「あなたを連れて来い、と言われましたが。……ご同行いただけますか?」
アザイルは短く沈黙した。目を伏せ、亡骸に別れを告げるようにひと息をつき、そして頷いた。
「……ああ。案内を頼む」
冥界。
それは、時の流れすら曖昧になる隔絶の領域。選ばれし者しか足を踏み入れることのできぬ、極悪魔サーティーンの私的な領域。
紫に澄み切った空は、どこまでも静謐でありながら不穏な色をしていた。空気に揺らぐ魔力は、異界の濃度をそのまま映し出している。
アザイルはナタルに案内され、豪奢な屋敷の接客室へと通された。漆黒の柱に支えられた広間。天井は高く、壁にはかつての神殿建築を思わせる装飾が施されていたが、そこに宿る気配は神聖ではなかった。
そして、その中心に一人の少年の姿があった。
否、それは少年の姿を借りた、何かであった。
アザイルの双眸が、その姿を捉えた瞬間、かつての記憶が脳裏に蘇る。白金の光を纏っていた天の主。その光が今、闇と黄金に染まりながら、静かに立っていた。
「……ルシフィス様……?」
その名を口にした瞬間――サーティーンが目を開いた。左右で異なる、黄金と漆黒の双眸。その奥には、世界のあらゆる深淵を覗き込んだ者だけが持つ、計り知れぬ感情が渦巻いていた。
「懐かしい名を口にする……だが、お前なら、そう呼ばれても構わない」
声音は穏やかだった。しかしその底には、剣より鋭く、氷より冷たい意思があった。その威圧、その哀しみ、そして微かに残る慈しみ。アザイルは確信する。
──やはり、この者はルシフィスその人である。
「悪魔となられたのですね……」
かつて、共に天界に仕えていた。共に律を守り、秩序の象徴であった者が、今や反逆の王となってこの地にいる。その現実を前にしても、アザイルの眼差しは揺るがなかった。
「……あなたは、これからどうするおつもりですか。天界の意志に逆らい、下界を……どう導くのか」
その問いに、サーティーンはふと天を仰ぐようにして、ゆっくりと語り始めた。
「下界の民は、神を求めている。絶望と混乱の中で、祈りの先を探している。……ならば、俺が神となろう。信仰を集め、世界の意思を掌握する。それこそが、真なる救いだと思わぬか?」
アザイルは静かに首を振る。
「神とは、救うためにあるのではなく――見守るためにあるのでは?」
「見守るだけで、何が救える?」
サーティーンの声が低く、しかし激しく震えた。
「神々は沈黙した。天は民を見捨てた。見守るだけの存在は、もはや神ではない。ならば俺が代わりに語り、裁き、導こう」
「それは支配です」
「違うな。理解だ。人の弱さを、俺は知っている。だからこそ、俺は彼らの前に立つ」
アザイルの瞳がわずかに陰った。
「……それでも、人には選ぶ力があります。苦しみの中にあっても、信じる対象を見出す力が。あなたがその光を奪えば、それは救いではなく、呪いとなる」
サーティーンはゆっくりと歩み寄る。その足音は、まるで天上の鐘の残響のように静かに響いた。
「お前はまだ、神を信じているのか? あの沈黙の主を。お前の堕天を見過ごし、罰だけを与えた存在を」
「……信じてはいない。だが、愛していた者たちのために、信仰という形を憎みたくはない。それだけです」
沈黙が降りた。
その沈黙の奥には、かつて天上で交わした祈りの残響が、微かに揺れていた。
やがて、サーティーンはわずかに口元を緩める。
「……ならば、俺の傍で見ていろ。お前の言う神なき救いが、どこへ向かうのかを」
アザイルは静かに息を呑み、目を伏せる。
そして、深い決意を込めて膝をついた。
「……承知しました。まずはその歩みを見届けながら。その道に剣が必要となる時、私は再びあなたの力となりましょう……ルシフィス……いや、サーティーン様」
灰色の羽が静かに揺れ、冥界の光を受けて淡くきらめく。
かつて天にあったもの。
今は地の底から再び立ち上がるもの。
かくして、堕天使と悪魔となった二人の再会は、運命の歯車をまた一つ――静かに、しかし確かに回したのであった。




