第38話 ナンバーXI 嫉妬の堕天使アザイル
奴隷商ドクワに中級悪魔リムスを貸したものの、胸の奥に嫌なざわめきが残った。
その不安を振り払えず、アザイルは彼の後を追った。
そして――予感は的中する。
リムスはドクワの魂を乗っ取り、狂気の炎を撒き散らしていた。
暴走を鎮めた後、ふと空気が変わった。
肌を刺すような魔力。
そして、懐かしくも痛烈な気配――ルシフィス。
そこに現れたのは、上級悪魔ナタル。
かつて同じ天を仰いだ仲間を思わせるその気配を前に、アザイルは低く告げた。
「……ルシフィス様に会わせてほしい」
その言葉を聞いたヤンナ女王とナタルは、息を呑む。
敵なのか、味方なのか――そのどちらとも言えぬ眼差しに、アザイルの過去が一瞬よぎった。
彼は、かつて女神に仕えた高位の天使だった。
二百数十年前。ルシフィス堕天事件のさなかに出会った一人の少女が、彼の運命を変えた。
少女の名はリアナ。
ベルゼブブの魔虫に家族を奪われ、血と土にまみれながらも祈りを捧げていた。
誰も来ぬ地で、ただ――「助けて……助けて……天使様」と。
――その祈りが、アザイルの心を貫いた。
天上の巡回の折、地上から呼ばれるように視線を落とした瞬間、彼女の姿を見た。
そのか細い命の輝きに、彼は悟る。
「神はもう、人の声を聞いてはいない」と。
女神の掟を破り、彼女を救ったとき、アザイルの堕天は始まった。
やがて二人の間に、淡い想いが芽生える。
天の清らかさと地の痛みを併せ持つアザイルに、リアナは微笑を向けた。
だが、その愛は天界において最も重い罪――禁忌の恋。
「人のために堕ちるならば、それでいい」
そう呟き、アザイルは堕天を選んだ。
そして、彼に賛同した数百の天使が共に翼を捨て、地に降りた夜。
リアナは病に倒れた。
「……わたしのことは、もういいの。どうか、他の人間を救って。あなたの翼が、誰かを包みますように……」
それが、彼女の最期の言葉だった。
――そして、夜が明けた。
リアナの亡骸を抱き締めながら、アザイルの心は崩壊していた。
人を救おうとしたのに、神に背いた。
神を信じたのに、人を救えなかった。
「なぜだ……なぜ、神は彼女を見捨てた……!」
その叫びは空を裂き、堕天の黒い羽が霧散する。
信仰も、理も、愛も崩れ落ち、胸の奥に残ったのはただ――嫉妬。
神に愛された天界の同胞たちへの嫉妬。
奇跡に見放された人間たちへの嫉妬。
そして、死してなお清らかなリアナへの嫉妬。
怒りと悲しみの渦が、荒れ狂う嵐となってアザイルを飲み込む。
その時、虚空から一つの声が響いた。
「……あなたの嫉妬は、美しい」
霧の奥から現れたのは、深緑の瞳を持つ悪魔。
六大罪の一柱――ナンバーⅤ、嫉妬の極悪魔レビィタン。
「あなたは神を妬み、人を妬み、愛すら妬んだ。だがそれは、何よりも愛を知る者の証」
アザイルは構え、絶叫した。
「黙れ……貴様に何がわかる!」
だがレビィタンは微笑み、翼を広げ、暴風を受け止めるようにその嫉妬を抱き締めた。
「わかります。私は嫉妬そのものですから。あなたが堕ちぬように、私はここにいる」
長い沈黙の後、アザイルはその腕を振りほどかず、涙を流した。
彼の中で渦巻く感情が、静かに形を変えていく。
「……もし、この感情を制する術があるならば、教えてくれ」
レビィタンは頷き、彼の額に触れた。
「ならば契約を交わしましょう。あなたの嫉妬を翼へと変えてあげます」
その瞬間、堕天使の背に、灰色の新たな翼が芽吹いた。
それは呪いであり、赦しでもあった。
こうしてアザイルは――
ナンバーⅩⅠ、嫉妬の堕天使として、再び世界に立った。
リアナの魂がどこへ行ったのか、アザイルには分からない。
ただ、彼女の祈りの残響だけが胸の奥で今も息づいている。
彼はやがて、賛同した仲間たちと共に闇国側の樹海の深奥に一つの町を築いた。
名を「バンシー」。
霧と魔力に包まれ、外界から遮断されたその町は、夜にしか姿を現さない。
黒曜岩と石で築かれた家々、天使の技術で浮かぶ橋、そして中央に湧く「リアナの泉」。
泉は夜ごと青白く輝き、町を覆う霧へと変わる。
人々はそれを奇跡の残滓と呼び、黙って手を合わせた。
そこには、鉱山町から逃げ迷って来た奴隷たち、亜人、翼をもがれた堕天使たちが暮らしている。
「罪を問わず、意志を問う」
それがアザイルの理念であり、贖罪の証でもあった。
そして今。
目の前にはヤンナ女王と悪魔ナタル。
遠い記憶の彼方にいたはずの存在――ルシフィスの気配が、再び現実の空気を震わせる。
ムーカワ国では、奴隷制度の廃止が進みつつあった。
世界が、ゆっくりと変わり始めている。
アザイルは、心の奥底で、あの少女の声が微かに響いた気がした。
(……リアナ。君の願いが、ようやく動き出したよ)
胸の奥で、青白い光がひとつ瞬いた。
それは祈りの残響――今も彼を導く灯。
(けれど……闇はまた歩き始めている。──私の翼は、まだ誰かを包めるだろうか)
アザイルの瞳に、再び炎が宿った。
過去の痛みも、罪も、すべてを抱えたまま――堕ちた翼が、再び空を翔けるその時は、もう近い。




