第37話 奴隷商ドクワの復讐
奴隷制度廃止の決定から、まだ数日も経たぬ頃だった。
ドクワは追われるようにムーカワを後にし、北方へと姿を消した。向かう先は鉱山町ヨウバリのさらに奥、霧深き谷に封じられた禁断の町――バンシー。かつて、神に背き堕とされた者たちが密かに築いた第二の都。正史からは消されたその町は、いまもなお、神々の目を逃れた亡者たちの巣窟だった。
この町を治めるのは、堕天使アザイル。かつて天界の監視者でありながら、人間と暮らしたいと女神の意に背き、自ら地に落ちた存在。灰色の翼を広げるその姿は荘厳で、だが目には一切の情は宿っていなかった。
ドクワは、命を賭ける覚悟でアザイルのもとを訪れた。ムーカワ国でかつてマルカス王と築き上げた、裏経済の詳細を余すところなく語り、奴隷商人として培った物流網、鉱山資源の流通、そして商人ギルドの再編計画すべてバンシーへの見返りと提示し。
「――代わりに、力を貸していただきたい。女王と、その右腕ナタル。奴らを……必ず王座から引きずり下ろす」
アザイルは無言のまま、しばしドクワを見下ろし、やがて冷ややかに唇を動かした。
「食糧と情報網は悪くない。対価として、中級悪魔のデーモンコアを一時的に貸与しよう。ただし、忘れるな。――その力は借り物に過ぎん。使いこなせなければ、お前の器は砕ける」
「構わん。……私が生き残るには、もうこれしかない!」
ドクワはデーモンコアを自らの心臓にあてがい悪魔化した。かつての比ではない魔力と身体能力が与えられ、背には黒煙のような翼が生え、骨格は獣のように変質していく。思考の奥では、もはや彼自身とは異なる意識――リムスの声が、低く囁いていた。
「血を……流せ。女王を、喰らえ……」
その頃、ムーカワ城では、断続的に異質な魔の反応が観測され始めていた。中級悪魔ドラツが用いていた魔力とは異なる、より深く、禍々しい波動。
城の政務室のベランダから北側城壁を見下ろしていたナタルは、ゆっくりと目を細めた。
「……腐った果実に群がる蠅の気配。まさか、生き延びていたとはね」
一方、ヤンナも静かに政務机から立ち上がり、壁に掛けられた剣の柄に手をかけた。
「来るのですね、ナタル。ドクワが」
「ええ。……ですが今回は、一筋縄ではいかないでしょう」
その予感は、ほどなくして現実となる。
突如として、塀に囲まれた城の中庭に異形の闇が噴き出した。結界が軋み、黒い羽根と紫の炎をまとう巨影が降臨する。現れたのは、かつての奴隷商ドクワ――いや、その成れの果てだった。
「ヤンナ! ナタル!――貴様らが、正義を語るなッ!!」
黒煙の翼が咆哮と共に裂ける。身体は獣のように変質し、胸には赤黒く脈打つコア。リムスの意志が、完全にドクワを侵食していた。
「我は……誰だ? ドクワ? 知らぬ……目の前の物は、すべてを喰らい尽くせ……!」
ナタルは即座に動き、魔力障壁を展開してヤンナを護る。
「……異質なデーモンコアが暴走を始めた。もう彼ではありません」
ドクワは復讐者としてではなく、瘴気を撒き散らす生ける災厄として城内を蹂躙する。兵士たちは接触するだけで瘴気に蝕まれ、次々と倒れていった。
「ナタル!」
「お下がりください、女王。これはわたしの領分です」
ナタルの全身に魔紋が浮かび上がり、上級悪魔としての力が解き放たれる。霧のように魔力があふれ出し、空間が軋み始めた。
だがその瞬間――空が割れた。
上空より降臨する灰色の翼。
「止まれ、リムスよ。貴様にドクワを使い潰す資格はない」
降り立ったのは、堕天使アザイル。灰翼をたたえたその姿に、ナタルは目を細めた。
「……ナンバーXI、嫉妬の堕天使アザイル」
アザイルは静かに右手をかざす。するとデーモンコアが悲鳴のような振動を放ち、ドクワの胸から強制的に引き剥がされる。ドクワの身体は、抜け殻のように崩れ落ちた。
「ドクワは、我が計画のための器にすぎん。それだけだ」
ナタルは一歩前へ出て、構えを崩さぬまま問いかけた。
「……ナンバーXIよ。目的は何? これは単なる介入では済まない」
その言葉に、アザイルはかすかに口元を歪めた。それは、永い時を経て初めて見せた笑みだった。
「……ルシフィス様に会わせて欲しい」
ヤンナは奴隷商を通じてアザイルの名を知っていたそして静かに口を開く。
「アザイル。あなたは、わたくしたちに敵するのですか?」
アザイルは空を仰ぎ、わずかに首を振る。
「……それはまだわからん。だが、ルシフィス様の意志を聞くまでは、剣は抜かぬ。私は今、彼の言葉を求めている」
王都に、静寂が戻る。
ただそこには、倒れ伏すドクワの亡骸と、空に残された魔の波動だけが、終わりなき戦いの序章を告げていた。




