切実な願い
暇を持て余す男がいた。映画やゲーム、読書といったありふれた娯楽にはとうの昔に飽きてしまい、今では眠り見る夢のほうが、まだいくらか楽しみだった。使い切れないほどの財産も、もはやなんの慰めにもならない。
眠気を誘おうと、大きなあくびを一つしてみる。しかし、ついさっき目を覚ましたばかりでは、眠気など訪れるはずもない。
腹も減っておらず、また、さほど興味も湧かない。せめてどちらか一方の欲求が刺激されればと、男は建物内をぶらつくことにした。
すると、ふと棚に置かれた小さな香炉に目が留まった。古びて埃をかぶったそれには、蓋の上から厳重な封が施されていた。物好きだった祖父か父が、どこかの骨董市で手に入れたのかもしれない。高価そうには見えないが、安物と切って捨てるにはどこか妙な存在感があった。
曰く付きの代物かもしれない。いや、むしろそうであってほしい。退屈が紛れる。そう考えた男は、封を剥がし、そっと蓋を開けた。
すると次の瞬間、香炉から煙が勢いよく噴き上がった。男は思わず香炉を床に落とし、数歩後ずさった。
やがて、煙の中からまず手が現れ、続いて角が覗いた。その姿は、どう見ても――
「あ、悪魔……」
「そうです。私は悪魔でございます」
現れたのは、ニタニタと口元を吊り上げた悪魔だった。
どうやらこの香炉は悪魔を召喚するための道具だったらしい。悪魔はぺろりと舌なめずりをしながら、死後に魂を渡すことを条件に、三つの願いを叶えると男に告げた。
「どんな願いでも叶えてくれるのか?」
「ええ、もちろんですとも。ただし、この星を粉々にしろとか、願いの数を千個に増やせとか、不死鳥など、この世に存在しないものを出せといった無茶な願いはご容赦ください」
「ああ、そのへんの加減はわかるよ」
「ありがとうございます。それでは、一つ目の願いは何にいたしましょう?」
「そうだな……本物を出してくれるんだよな? 催眠術でごまかすんじゃなくて」
「ええ、もちろん。私はそのような姑息な手段は好みません。さあ、何なりとお申しつけくださいませ」
悪魔は両手をこすり合わせながら、いやらしい笑みを浮かべた。男は少し考えてから、口を開いた。
「じゃあ……アイドルの轟目ヨウコちゃんをここに出してくれ。発情した状態でな」
悪魔は目を閉じ、渋い顔で言った。
「申し訳ありませんが、それはちょっと……」
「なんだ、できないのか?」
「その、コンプライアンス的にちょっとね……」
「発情が駄目だったのか? じゃあ、ベッドに縛りつけた状態で出してくれ」
「いや、それもやはりコンプライアンス的に……」
「じゃあ、普通の状態でいいから出してくれよ」
「それも……」
「おいおい、なんでだよ」
「だってあなた、いやらしいことするんでしょ?」
「するが」
「そういうのはちょっとねえ……。別のお願いにしませんか? ちなみに私、マッサージが得意なんですよ」
「頼むかよ。じゃあ、金剛屋の豚骨ラーメン特盛をここに出してくれ。トッピング全乗せでな」
「いやあ、それもちょっと……」
「できないのかよ」
「だって、食べきれます? すごい量ですよ。今、お腹空いてるんですか?」
「いや、まあそこそこだけど」
「ですよね。なら、食品ロス的にちょっとねえ……。他のにしましょうよ。いやあ、実は私、創作落語が得意でしてね。一席につき、願いを一つ消費するということで、ではさっそく――」
「いやいや、やめろやめろ。そんなもん誰が頼むか。そんなのより、若い女を一人、ここに出してくれ」
「うーん、エッチなお願いは……」
「別に何かするとは言ってないだろ」
「でも、エッチなことするんでしょ?」
「なんだよ……。じゃあ、仕方ない。同年代の男でもいいよ」
「いやあ、だからエッチなことするんでしょ?」
「するかよ!」
「どうだか……あ、私でよければ」
「嫌だよ! 毛深いんだよ、お前!」
「では、脱毛しましょうか? それも願い一つ分ですが」
「なんで、お前の脱毛に一つ使わなきゃならないんだよ。もう誰でもいいからここに出してくれ」
「いやあ、それもねえ……やっぱりマッサージにしませんか? ねえ、そうしましょうよ。ほら、サービスで叶えられる願いを五つに、いや、八つに増やしますから。ね、ね! ああ、そうだ。沈没船の金塊とか欲しくありません? それから、ええと」
悪魔は必死にまくし立てながら、次々と提案を並べる。男はそれを黙って見つめ、深くため息をついた。
……この悪魔の態度と、叶えられる願いの制限から考えて、やはりこの地球上で生き残っているのは、自分だけらしい。
閉ざされたシェルターの中、ただ一人。こんな状態じゃ、たとえ不老不死にしてくれると言われても願い下げだ。