第9話 覚醒!深紅と黒曜の剣舞
カイは走っていた。
ただひたすらに、西の森を目指して。
手にした新しい大剣が、まるで生きているかのように、カイの焦りに呼応して微かに脈打っている。
(リゼット……! 無事でいてくれ……!)
息が切れ、足がもつれそうになる。
それでもカイは足を止めなかった。
脳裏に焼き付いているのは、ギルド職員の切迫した声と、リゼットが絶体絶命だという報せ。
「カイ様ー! 待ッテクダサイー!」
後ろから、小さな体で必死に追いかけてくるナットの声が聞こえるが、振り返る余裕すらなかった。
森に近づくにつれて、異様な雰囲気が漂い始める。
鼻をつく血と臓物の臭い。
そして、遠くから聞こえてくる、おびただしい数のゴブリンの甲高い叫び声と、金属がぶつかり合う音。
戦闘は、まだ続いている……!
カイは茂みをかき分け、森の開けた場所へと飛び出した。
そして、目の前に広がる光景に息をのむ。
地獄。
そうとしか言いようのない光景だった。
地面は緑色の血でぬかるみ、数えきれないほどのゴブリンが、まるで津波のように一体の影に襲いかかっている。
その中心で、泥と返り血にまみれながらも、必死に剣を振るい続ける赤い影――リゼットだ。
彼女の纏う深紅の鎧は、もはやその輝きを失いかけているように見えた。
動きは明らかに鈍く、振るわれる大剣も重そうだ。
それでも彼女は、倒れない。
歯を食いしばり、時折よろめきながらも、迫りくるゴブリンを必死に斬り伏せている。
だが、それも時間の問題に見えた。
ゴブリンの波は、少しずつ、しかし確実に彼女を飲み込もうとしていた。
「(カイ……)」
遠く、風に乗って、リゼットのか細い声が聞こえた気がした。
その瞳から、光が消えかけている。
「リゼットーー!!」
カイは、喉が張り裂けんばかりに叫びながら駆け出した。
工房に籠っていた臆病な自分は、もうどこにもいない。
ただ、彼女を助けたい。
その一心だった。
「グギャ!?」
「キシャァ!」
カイの存在に気づいたゴブリンたちが、醜い顔を歪めて襲い掛かってくる。
戦う力のないカイなど、赤子の手をひねるようなものだろう。
だが、今のカイには、なすべきことがある。
「リゼット、これを使え!!」
カイは渾身の力を込めて、手にした新しい大剣を、リゼットに向かって投げた。
放物線を描き、黒曜石のような輝きを放つ剣が、リゼットの目の前へと迫る。
「え……?」
リゼットは、迫りくる剣に気づき、反射的に手を伸ばした。
その手が、剣の柄に触れた瞬間――。
バチィィィン!!
閃光が迸った。
リゼットが纏う深紅の鎧と、カイが投げた黒曜の剣が、激しく共鳴し、周囲を薙ぎ払うほどの眩い光を放ったのだ。
「グギャアアァァ!?」
近くにいたゴブリンたちが、光に焼かれて吹き飛ぶ。
「あっ……あつ……!?」
リゼットの全身を、経験したことのない熱い力が駆け巡った。
それは、カイの強い思い。
リゼットを守りたい、助けたいという切なる祈り。
そして、二人の間に生まれた絆の力。
剣を通じて、その全てがリゼットの魂へと流れ込んでくる。
体の奥底から、力がみなぎってくる。
さっきまでの疲労が嘘のように消え去り、視界がクリアになる。
重かった体が、羽のように軽い。
「この力は……カイ……!」
リゼットの翠色の瞳に、燃えるような強い光が戻った。
彼女はゆっくりと立ち上がり、手にした新しい大剣を構える。
黒曜の刀身が、深紅の鎧と呼応するように、不気味なほど美しく輝いている。
その姿は、先ほどまでの追い詰められていた剣士とはまるで別人だった。
圧倒的な存在感と、揺るぎない闘志。
「ギ……ギ……!?」
周囲のゴブリンたちが、その異様な変化に気づき、明らかに怯えの色を見せ始めた。
リゼットは、静かに息を吸い込み――吼えた。
「邪魔よおおぉぉぉぉっ!!」
次の瞬間、リゼットの姿が掻き消えた。
いや、常人には捉えきれないほどの速度で、ゴブリンの群れへと突っ込んでいたのだ。
黒い閃光が走る。
リゼットが新しい大剣を振るうたびに、ゴブリンがバターのように両断されていく。
剣は驚くほど軽く、リゼットの意思に寸分の狂いもなく追従する。
まるで、彼女の体の一部になったかのように。
舞うようなステップで敵の攻撃をかわし、回転しながら周囲の敵を薙ぎ払う。
時には、剣を地面に突き立て、衝撃波でゴブリンを吹き飛ばす。
それはもはや、戦闘ではなく、一方的な蹂躙。
力強く、それでいて流れるように美しい剣技。
深紅の鎧と黒曜の剣が織りなす、死の舞踏。
力強い動きの中で、セクシーな鎧のデザインが、かえって彼女の凛々しさと神々しさを際立たせていた。
「ギ……ギギ……!」
「ヒィィィ!」
ゴブリンたちは完全に戦意を喪失し、恐慌状態に陥って逃げ惑い始めた。
しかし、リゼットはそれを許さない。
妹を、カイを、そしてこの街を脅かした敵を。
一体残らず、その剣で断ち切る。
黒と赤の旋風が、戦場を薙ぎ払っていく。
そして、ついに最後の一体が断末魔の叫びを上げて崩れ落ちた時、森はようやく静寂を取り戻した。
「はぁ……はぁ……」
おびただしいゴブリンの骸の中心で、リゼットは肩で息をしながら、黒曜の大剣を地に突き立てて静止した。
鎧と剣は、まだ微かに光の残滓を放っている。
「リゼット!」
その静寂を破るように、カイが駆け寄ってきた。
その顔は泥と汗で汚れているが、安堵の色がありありと浮かんでいる。
「リゼット! 無事か!?」
カイの必死な声に、リゼットはゆっくりと振り返った。
その顔には、疲労の色はもうない。
ただ、やり遂げた達成感と、カイへの感謝の気持ちが溢れていた。
リゼットは、カイが今まで見た中で、最高に輝く笑顔を見せた。
「……カイ! 来てくれたんだね!」
その声は、喜びで震えていた。
絶望の淵から救い出してくれた、ただ一人の職人。
そして、かけがえのないパートナーへ向けられた、心からの感謝の言葉だった。