第23話 霧の中の休息、そして湯けむりの夜
霧の山脈に足を踏み入れてから、既に半日が経過していた。
深い霧は晴れる気配を見せず、一行の体力と精神力は確実に削られていく。
足場は悪く、方向感覚は狂い、時折聞こえる不気味な獣の声が神経をすり減らす。
先ほどの密着ハプニングの気まずさも、疲労した空気の中に微妙に残っていた。
「はぁ……はぁ……。シルフィさん、山小屋はまだ……?」
リゼットが、額の汗を拭いながら尋ねた。
その声には、隠しきれない疲労の色が滲んでいる。
「地図によれば……もう、この近いはずなのですが……。この霧では、正確な位置が……」
シルフィも、古い地図とコンパスを見比べながら、わずかに眉をひそめる。
彼女の冷静な表情にも、疲労の色が見え始めていた。
「なんか腹減ったなー……。もう歩けねーかも……」
ガオも、いつもは元気な尻尾をしゅんと垂らしている。
ナットもカイの肩の上でぐったりとしていた。
(このままじゃ、まずいな……)
カイは焦りを感じ始めていた。
日が傾き始め、気温も下がってきた。
この霧の中で夜を迎えるのは、あまりにも危険すぎる。
「カイ様! アレ……!」
その時、カイの肩の上で、今まで黙っていたナットが小さな声を上げ、前方を指差した。
ナットが指差す方向を、カイは目を凝らして見つめる。
深い霧の中に、ぼんやりとだが、確かに何かの影が見えた。
それは……建物の影のように見える。
「みんな! あそこを見てくれ!」
カイの声に、ヒロインたちも顔を上げる。
「あれは……!」
「もしかして……山小屋!?」
希望の光が見えた気がして、一行は最後の力を振り絞り、その影に向かって歩みを進めた。
近づくにつれて、霧の中に浮かび上がる古びた木造の小屋の姿がはっきりとしてくる。
屋根には苔が生え、壁も所々傷んでいるが、雨風をしのぐには十分そうだ。
煙突から煙は出ておらず、人の気配もない。
かつて狩人か何かが使っていたのだろうか。
「やった……! 本当に山小屋があったんだ!」
リゼットが歓声を上げる。
カイたちは慎重に小屋に近づき、扉を開けた。
中は埃っぽく、家具などもほとんど残っていなかったが、しっかりとした囲炉裏があり、壁や屋根もまだ機能しているようだ。
「ふぅ……助かった……」
カイたちは、なだれ込むように小屋の中へ入り、ようやく安堵の息をついた。
まずは休息だ。
ガオが手早く囲炉裏に火をおこし、リゼットが持ってきた乾物で簡単な食事の準備を始める。
シルフィは小屋の隅々を調べ、危険がないか確認している。
カイとナットは、散らかった床を掃除し、寝床になりそうなスペースを確保した。
それぞれが協力し、小屋の中は少しずつ快適な空間へと変わっていく。
温かいスープを飲み、火の暖かさに包まれていると、張り詰めていた緊張が解け、どっと疲れが押し寄せてきた。
「水がもう少ないな……。俺、近くに川か泉がないか、ちょっと見てくるよ」
カイは立ち上がり、空になった水筒を手に取った。
「気をつけてね、カイ」
「暗くなる前に戻ってこいよ、カイ兄」
「……足元には注意してください」
三人の心配そうな声に見送られ、カイは再び霧の中へと足を踏み出した。
ナットも「オ供シマス」とカイの後をついてくる。
小屋の周辺を注意深く探索していると、岩陰の方から、微かに湯気が立ち上っているのに気づいた。
(ん……? 湯気……?)
不思議に思い近づいてみると、そこには信じられない光景が広がっていた。
ゴツゴツとした岩に囲まれた、天然の露天風呂のような空間。
湯気の向こうには、透き通った温泉がこんこんと湧き出ており、湯船のような窪みに満ちている。
「お、温泉だ……!!」
カイは思わず声を上げた。
こんな山奥に、天然の温泉があるなんて!
これはまさに、天の助けだ。
カイは急いで小屋に戻り、ヒロインたちに報告した。
「温泉!? 本当!?」
リゼットが目を輝かせる。
「まあ……こんな場所に、天然の温泉が……」
シルフィも驚いた様子だ。
「やったー! 体洗えるのか! 最高じゃん!」
ガオは既に服を脱ぎそうな勢いだ。
「よ、よし、じゃあ、暗くなる前にみんなで入ろう! ……あ、いや、順番に、だな。まずは女性陣からどうぞ。俺は外で見張りをしてるから」
カイは慌てて付け加えた。
いくら仲間とはいえ、一緒に入るわけにはいかない。
「えー、カイ兄も一緒に入ろうぜー?」
ガオが無邪気に言う。
「だ、だめだよガオ! カイは男の子なんだから!」
リゼットが顔を赤くしてガオを窘める。
「……カイ・クラフトは外で待機していてください。それが合理的です」
シルフィも冷静に、しかし有無を言わせぬ迫力で言った。
こうして、ヒロイン三人が先に温泉へ向かい、カイはナットと共に、少し離れた場所で見張りをすることになった。
(……それにしても、温泉か。疲れが取れるといいな)
カイはそんなことを考えながら、耳を澄ませる。
温泉の方からは、チャプン、という水の音と、三人の楽しそうな声が微かに聞こえてきた。
「はぁ~~~極楽~~~! 生き返る~~!」(リゼット)
「んっ……! あったけー! 気持ちいー!」(ガオ)
「…………ふぅ」(シルフィ?)
(うぐっ……!)
聞こえてくる声に、カイの心臓が跳ねる。
湯気で直接見えるわけではないが、どうしても想像してしまう。
リゼットの、シルフィの、ガオの……。
(聞くなカイ! 考えるな! 彼女たちは疲れてるんだぞ! これは休息だ! うん!)
カイは必死に頭を振り、煩悩を追い払おうとする。
しかし、風に乗って運ばれてくる、石鹸の甘い香りが、カイの理性をさらに揺さぶる。
「ねえ、カイ、ちゃんと見張りしてるかな……? 見てないよね……?」(リゼット)
「へーきだって! カイ兄はそんなことしねーよ! ……多分!」(ガオ)
「……カイ・クラフトを信じましょう。それより、明日の行程についてですが……」(シルフィ)
(うおおおお……! 聞こえちゃう、聞こえちゃうって!)
カイは耳を塞ぎたくなった。
その時、
「カイ様、顔、赤イデス。熱デスカ?」
肩の上のナットが、無邪気に核心を突いてきた。
「な、なんでもない! ちょっと……焚き火にあたりすぎただけだ!」
カイは慌てて誤魔化した。
しばらくして、ヒロインたちが温泉から上がってきた。
湯上がりでほんのりと頬を染め、濡れた髪からは湯気が立ち上っている。
それぞれが持ってきた替えの普段着に着替えていたが、そのリラックスした表情と、どこか潤んだ瞳は、普段とは違う色香を漂わせていた。
「ふぅー、さっぱりしたー!」
「いい湯でしたね」
「腹減ったー!」
三者三様の感想を口にしながら、彼女たちは小屋の中へと戻っていく。
カイは、その後ろ姿から目が離せずにいた。
その後、カイも一人で温泉に入り、冷えた体と溜まった疲労をゆっくりと癒やした。
不思議なことに、温泉に入った後は、あれほど悩まされた煩悩もすっかり消え、頭がすっきりとしていた。
その夜は、久しぶりに屋根のある場所で、温かい火にあたりながら眠ることができた。
交代で見張りをする必要もなく、四人と一匹は、深い眠りについていた。
カイは、仲間たちの穏やかな寝息を聞きながら、明日の山頂アタックへの決意を新たにする。
温泉のおかげで、体力も気力も十分に回復した。
月光鉱石は、もうすぐそこにあるはずだ。