第一章 第八話
巨大な樹海の、その表層。そこは、森を生きる全生物が震撼した波動の源泉。
元は小ぶりな家屋があったそこには、無数の小さな木片が半径十メートル程度の円周上に散らばっている。庭の小さな畑には作物一つ残っておらず、離れにある丈夫な造りの作業小屋だけが、なんとか原型を保っていた。
円の中心には三人の人間がいる。いや、正確には二人の人間と、一体の精霊が。
精霊は顔を顰めて呟いた。まるで、醜悪な悪意そのものを目の前にしているかのように。
「ああ、まだ匂う。これは相当長いですね。十年物でしょうか」
精霊は麗しい人の形を模していたが、単に模倣といっても精度は様々だ。見た目だけが似ていて機能は存在しないもの。外部から見た機能は存在しているが、内的なもの、例えば内臓だとかは依然変わっていないもの。そして、全ての機能において完璧に同一であるもの。
その精霊の模倣は最後者だった。故に、必要のない機能が、求めてもいない情報を流してくる。それが精霊にとって、酷く不快であった。その不快を享受し続ける道理など、存在しないのだから。
その瞬間、精霊の顔面に変化が訪れた。鼻に細い横線が現れる。その線は一本では留まらず、硝子に入ったヒビのように連鎖して増えていく。すぐに鼻全体を覆うほどに広がると、その線に合わせて表皮が裂けた。線に見えたそれは、細い隙間にできた影だ。鼻は繊維状のなにかで構成されており、解れた繊維は全て鼻があった場所の付け根から伸びている。どれも細い繊維であるが十分な硬度があるのか、しな垂れることもなく解れた状態のまま静止していた。
原型のわからない段階まで繊維が解れると、その根元へ吸われるように引き込まれていった。勢いよく巻かれる釣り糸のように、ときに弛みながらも詰まることはない。瞬きのうちに、鼻のあった場所には平らな肌と不自然な孔だけが残った。その孔も、幾本の繊維が表面を覆い、すぐに平らに均される。
匂いを感じなくなったことで満足そうに頷くが、違和感を感じて口をもごもごと動かした。鼻孔を閉じたことで声が上手く響かないのだ。これを、鼻腔から口蓋へ管を通すことで解決した。少なくとも今は人の形であるため、一部をいじれば帳尻合わせが必要になる。煩わしいことだが、一先ずは落ち着いた。
とはいえ悪臭を感じなくなったというだけで、匂いの元は消えていない。
「これは私の力では無理、というか放置が無難ですね」
ゴウキの腕を切り落とした精霊は、倒れ込んでいるユウリを見た。衣服こそ消し飛んでいるが、けが一つもない。良かった。素直に安心を覚える。が、すぐに自分の現状を思い出した。今は人間の形をしているが故に、感情がそのまま表れてしまうのだ。これはあまりよろしくない。
緩んだ表情を引き締め直し、その場でしゃがみ込んだ。集中するために深呼吸をしてユウリの頬に触れる。喜ばしいことに、魂に変化はなかった。後遺症も残らないだろう。そして、忌まわしき『力』は部分的に塗りつぶせている。
その瞬間、一時的に消えていた痣が、一瞬にして全身を覆った。それを感知していた精霊は、ユウリの肌が焼け始める前に、大きな葉で日陰を作る。そのまま手を離しても、その葉は一切たなびくこともなく宙に浮いていた。
「檻は、半壊といったところでしょうか。流石、といったところですね。まあ、あれならこの程度苦ではないのでしょうが」
誰に話しかけるでもなく呟いた。聞く対象はいないものとして。だが、その声を聞いてくれていることを密かに願ってもいた。聞いていないのならそれまでだ。だが、意識があるのなら。
とある事情により、語りかけることはできない。そして語り掛けるわけにはいかないことを、察されることわけにもいかない。
至極面倒くさいが、ここで雑な行動をしてしまえばわざわざ出てきた意味が無くなってしまう。せっかくのチャンス、これを逃しては次が無いかもしれないのだ。
精霊はユウリの体をそっと抱えて立ち上がり、家の残骸の外へ歩き始めた。周囲に散らばっている家を形作っていた木片は、精霊の足を避けるようにはけていく。地面に空白の足跡ができた。
「う゛ぉい」
背後から刺しかかってきたゴウキを、顔を向けもせずに蹴り上げる。その手には折れた柱が握られていた。吹き飛んだゴウキは、作業小屋を完全に破壊したところで止まった。何も無い方向に蹴られていれば、それこそ森の外まで飛ばされていたかもしれない。
精霊は歩みを止め、気怠そうに振り返った。表情筋と思考を分断しておいたおかげで、怠そうな無表情を保つことができたようだ。
「はぁ。もう治ったんです?めんどくさいですね」
何かを言おうとしたゴウキは、口から血の塊を吐き出した。
精霊の見た目は、十代の女性に近いものだった。衣服らしきものは着ておらず、それを恥じらう様子もない。肌の血色は悪く、手足の細さからしても力があるようには見えない。艶のある浅緑色の髪も、傷の一つもない珠の肌も、どこぞの貴族と言われても納得できるほどに整えられていた。
その時ゴウキは、反撃を食らうつもりで襲い掛かった。両腕が塞がっている以上、蹴りくらいしか攻撃手段がない。それがわかっていれば、受け流すことは十分可能だ。自分にダメージを与えられる手段などないはず、と判断していた。
だが、その細足から繰り出された鋭い蹴りは容易くゴウキの視覚を振り切り、内骨格、内臓に致命的な損傷を与えながら、その巨体を吹き飛ばした。
ゴウキは自分がなにをされたのかわからなかった。が、その顔を見た瞬間、疑問は、思考は、自身の視覚へと還元された。見た目は人間でありながら、人間性というものをまるで感じない。鼻の無い顔と言えばそれだけだが、数々の修羅場をくり抜けてきたゴウキをもってしても、脚が竦む程度には不気味だった。けがや病気なんかで欠けているのとはわけが違う。
生存本能が、全力で逃避を命令している。わからないからだ。何者なのか。人間なのか。人間だとしたら、人間でないとしたら、どれほど強いのか。自分を殺そうとしているのか。
小さな寒気が、連鎖的に広がっていく。恐れを感じてしまいそうになる。
一度目を瞑った。こんな時どうするか。単純だ。ただ一つのことを考えていればいい。
恐怖を感じるのなんて、死んだ後でいい。
「あれの強化も完璧じゃないんです。他の人間よりも強い繋がりですが、その程度」
「ゆ゛、ウリを、どこ、連れてく気だ!」
喉に纏わりつく血液で、言葉が上手く出てこなかった。息を吸うだけで、がらがらと肺が鳴る。
さらには、蹴りで受けた痛みが一向に引かない。恐らくただの蹴りではなかったのだろう。それでも、立たなければ。ありがたいことに、あの存在は足を止めている。まだ追いつける。
「あれの目が届かない場所です。もたもたしてると特定されますよ?」
「行かせると、思うのか!」
「私があなたを殺せないと思うので?というか話聞いてくださいよ」
啖呵を切れたはいいものの、まだ立てない。情けなくて涙が出そうになる。
それに、あの存在の言う通り、俺では勝てないだろう。一人で逃げるならまだしも、ユウリを連れて逃げるためには勝利は
いや、もう一つ選択肢があった。
「なら、俺も連れていけ!」
断られて当たり前の要望。その返事は、ゴウキの予想の斜め上を行っていた。
「無理ですね。それが付いている以上、貴方の位置は常にばれていますので」
その視線の先には、ゴウキが無理やり押し付けて治した腕があった。
綺麗に切断されていたおかげで、自然治癒の範疇で元に戻すことができた。そう、不自然なほど綺麗に切断されていた。
「なに、言ってんだ」
ゴウキは自分を一緒に連れて行くことを完全には拒否されなかった段階で、選択肢から戦闘を省いた。そもそも戦闘の意思はないものと決め打ちして、相手の目的を探り始めた。その結果、会話内容に初めて疑問を覚えることができたのだ。
「はぁ、めんどくさ。わからないでしょう?なにもかも。私も説明はめんどくさい。わからないのなら諦めていただきますね」
「無理だ」
おかげで段々わかってきた。この存在は、なにか自分にさせようとしていることがある。ただ邪魔なだけと思っているにしては、あまりに喋りすぎだ。
だがゴウキが襲うまでは無視していたあたり、あくまで本来の目的はユウリなのだろう。ならばこそ、この機会を逃すわけにはいかない。
この時のゴウキは、後で思い返すと非常に不自然な思考をしていた。追い詰められて、打ちのめされて、勘が鋭くなったということも確かにあり得る。それにしてもあまりに突飛な発想と、なぜかそれを真実だと思い込んでしまっていた。
そしてさらに不思議なことに、それはまごうことなき真実なのだった。
「うーん、じゃあ死にますか?この子のためにも」
精霊の足元から、先端のとがった樹木の根が顔を出した。恐らく、この樹海にある木のものなのだろう。あれが襲ってくれば、ゴウキであっても簡単に貫かれてしまう。
「断る」
「なら考えてくださいよ。私の言葉、貴方がすべきこと。なぜ、貴方を殺していないのか」
やはり、この存在は戦う意思がない。どころか、もしかすると、敵ですらない。なにか、直接伝えることのできないなにかを俺に伝えようとしている。なぜ直接言えないのか、そんなことはどうでもいい。今考えるべきは、俺がすべきこと。すなわち、俺にしかできないこと。
言葉。言葉。何を言われた?何をした?思えば片腕だけを切り落とすというのも、不自然極まりない行動だ。それに加え、あれという言葉。
左腕にあって、右腕にないもの。しかも、わざわざ切り落とす必要があった。つまり、腕そのもの?いや、そうじゃない!
ゴウキは迷わず、一度切り落とされた左腕から福音の紋章を千切り取った。
それは邪龍討伐の際、神から直々に刻まれたものだった。それと同時に祝福の源でもある。
恐らく、この存在の言うあれとは神のことだろう。そして、俺はその神の祝福を受けている。口ぶりからして、この存在はあれと対立している、とまではいかずとも嫌っている。つまり、嫌っている神の祝福を消そうとしたのだ。
だが、紋章を体から切り離しても祝福は消えなかった。そのことについてはすぐに納得できた。祝福を消すには本人の意思が必要なのだろう。祝福とは、神と人間を結ぶ強い契約のようなもの。第三者がどうこうできるような概念ではなかったのだ。だから自分の意思で物理的に千切ることで、祝福を消すことができた。
「へぇ。知ってるんですか?」
精霊は嬉しそうに聞く。ゴウキは表情こそ硬いままだが、どこか安心した様子だ。
左腕の抉れた傷口からは、おびただしい量の血が流れている。
「知らん」
「ふふ。いいですね。手間がかからなくて。来ます?」
「そう言ってる」
「じゃあ自分で歩いてください。あ、もう傷の自然治癒はありませんよ」
「わかった」
「あと、貴方まだ少し匂うので。あれの『力』が抜けるまでは治しませんからね」
「……おう」
まるで簡単に治せるかのような言いぶりだな。喉まで出かかっていた言葉を、疲労の甲斐あって飲み込めた。この存在がなんなのか未だにわからないが、少なくとも人間ではない。もっと上位の、神にも近しい存在なのだろう。人間を治すことなど、本当に容易いのかもしれない。今は傷口よりも上を右手で絞めて、出血をできる限り抑えるに留めた。
だが、圧倒的上位者であるからこそ、この存在は確実に俺たちの味方だ。もし敵対していれば、とっくに二人とも殺されている。
ユウリの神素で消失していた皮膚は、とっくに完治している。神素はほとんど尽きているが、生命活動に支障はなさそうだ。けがというけがといえば、精霊に蹴り上げられたときに折れた骨と、傷ついた内臓、抉れた左腕くらいのものだ。
そして、紋章を取ったことで祝福はなくなった。いつもならこの程度の傷、数秒で完治しているが、言われた通り自然治癒も消えているようだ。となれば肉体の強度も祝福を受ける前のもの、と考えておいた方がいいだろう。一抹の不安はあるが、騒いだところでどうにもならない。二十年前はそれでもちゃんと生活できていた。
ゴウキのけが、疲労など一切考慮せず、精霊は樹海を真っすぐ歩く。木々は精霊を避けるように右へ左へ、不自然な形に曲がっていく。ゴウキは、これも聖術だろうか、と考えて一人笑った。ユウリの考える癖が移っている。ユウリの生死は確認した。あれだけの力を暴走させておきながら無傷というのだから恐れ入る。
進むにつれて周囲の樹は巨大化していき、樹海の深部へ向かっていることがゴウキにも体感できた。二人は人類未踏の地を、舗装路の如く歩いて行った。