第一章 第四話
ゴウキから聖術を教わった日の夜、ユウリは眠れないでいた。
見たことのない不思議な現象。ゴウキの嬉しそうな顔。そして、嘘を吐いてしまった罪悪感。
これまでだって、ゴウキに嘘や誤魔化しを一切してしまったことはある。それも何度も。その度、ゴウキを安心させるためには必要なことなのだと割り切っていた。だが、この頃そんな嘘が少しずつ嫌な重みを帯びるようになっていた。それはユウリが本当の意味でゴウキを信用し始めた証に他ならないのだが。
そのことに気付けないユウリは、とにかく今はゴウキのことから意識を逸らさねばと考えた。眠れない日はとことん眠れないユウリだからこそ、そういう時どうすれば良いのかきちんと心得ていた。重要なのは、他のことに集中してしまうこと。そして嫌なことに浸かってしまわないことだ。
思考は自然と、聖術のことへと戻ってきた。
ゴウキが見せてくれた火は、とても綺麗だった。暖炉や焚き木の火とは違って揺らぎが無かった。メラメラと滾るのではなく、凛として燃えていた。とても鮮やかな硝子細工のようにも見えて、その感覚を少し離れても伝わる熱が否定した。あれだけ小さな火でも熱はちゃんとあって、あの距離を考えれば普通の火よりも断然熱いのだと思う。
そして何より、あの火はユウリにしか見えない紐を燃料に燃えていた。ユウリの知る普通の炎は木や、木から作った木炭を燃料に燃える。そのときふと思いついた。いや、もしかしたら普通の火も、あの紐を燃料に燃やすことができるのだろうか。ゴウキがそうしているのを見たことがないからわからない。けれど、それはあり得ることだと思う。もしそうなら、わざわざ薪を割ったりしなくても済むようになるかもしれない。よし、今度ゴウキに頼んでみよう。
とはいえ現状わかることとしては、少なくとも聖術で作られた火はあの紐だけで燃えていたということくらい。となると、他の聖術もあの紐が元になるのだろうか。ゴウキは聖術のことを教えてくれた時、水を出したり、剣を作ったり?できると言っていた。剣を作るというのはあまり想像できないが、ゴウキが飾っているような金属の塊も作り出せる、ということなのだろう。あんなに大きくて重い物、あんな紐で作ることなんてできそうにないけど。あの言い方からしてゴウキはできないみたいだし、自分の知らないなにかがあっても不思議じゃない。いや十分不思議ではあるんだけど。
ユウリは寝返りをうって、窓の方を見た。寝転がったまま、カーテンを開ける。外は星の光で仄明るく、真っ暗な部屋で慣れた目だと、庭にある畑の様子も薄っすらと見えた。ユウリは日の光を浴びることができないが、星の光程度なら問題ない。むしろじんわりと痣が温かくなって気持ちがいい。そのまま窓を開けると、ひんやりとした風が室内を浚っていった。
そっと目を閉じて、もう一つの目で外を見る。暗闇を透けて、小さな紐の塊が少し高い位置で行ったり来たりしているのが見えた。多分、リスのような夜行性の動物が木の上を走り回っているのだ。紐の塊は至るところにあり、満天の星空がゆらゆら揺れているように見える。
数分の間見つめて満足すると、今度はもう一つの視界も閉じた。五感全てを閉じるために、音を断ち、匂いを流し、風と一体になった。すると、皮膚がぼわぼわと広がっていくような感覚が訪れる。その感覚を掴み、意識を集中させた。自分の体を押し伸ばすように感覚を広げていく。とはいっても、無造作に広げていくわけじゃない。リス達を、夜を生きる動物達を威嚇してしまわないよう慎重に広げていく。
ゆっくりとゆっくりと、森の空気と馴染ませる。それは完全にユウリの感覚によるもので、誰かにやり方を聞かれたところで教えることはできないだろう。それでもユウリは森の空気を理解しているし、そこに自分を馴染ませることができる。ようになってきていた。
まず、リスが一匹、ユウリの内側へ入ってきた。その一瞬だけ動きを止めたが、気のせいとでも言うように木の上を巣穴らしき場所まで走っていく。ユウリは心の中でガッツポーズをとった。これまでは、私が広げているなにかに入った動物はすぐに逃げ出していた。昨日の昼なんかは後少しというところまで来ていたのに、すんでのところで逃げられてしまった。
ユウリは感覚をどんどん広げていく。この行為に然したる意図はない。できるからやっていただけだ。だがそのうち、繰り返すことでユウリは自身が感じ取れる領域が広がっていくことに気が付いた。やればやるだけわかりやすい成果があること、そこに少しの好奇心が重なって、これは少し前からユウリの日課となっていた。そして今日、動物達をもユウリは感じることができるようになった。
ユウリが広げる感覚は、他の五感全てを合わせたような性質を持っている。具体的には、視覚のように繊細な情報でありながら聴覚、嗅覚のように広域の情報を一つのものとして処理できる。前後左右、そして上空のものであっても、その全てにピントを合わせることができるのだ。そして当然と言えば当然なのだが、それだけ高度な認知は膨大な情報の処理を要する。通常の人間の脳では到底受け入れきれない、それどころか脳そのものの機能が失われかねないほどの情報だ。
ユウリは、家の周辺にいる全ての動物の動きを把握していた。その内容に、ノイズや濁りといった曖昧さは無い。どこに、どんな動物がどれだけいて、それがどう動いているのか。その全てを余すことなく認知しているのだ。
そんな行為をユウリが平然と続けていられるのは、ユウリの生まれついての体質に起因する。まだ意思すらない頃に経験した、二つの視界が混ざることによって流れ込んできた莫大な情報。ユウリは苦しみながらも、それらを処理しきったという経験がある。人間の脳の機能は、二、三歳までの間で急速に発達する。その期間で脳を無理やり酷使したことで、ユウリの脳は人間を逸脱した性能を持っていた。
そして今では小さな町程度を覆うほどになった六感はユウリの脳に更なる負担を与え、その疲労によってユウリの脳は成長を続けている。そのことを知る由もないユウリは、数十分ほどすると心地良い疲労を覚えた。限界とはまだまだ程遠いが、ユウリに鍛えているという意識はない。限界まで続ける必要は全く無い。
例えそれが本来人間には不可能な技術だとしても、その使い手が世界に魔王と邪龍しかいないものだとしても、ユウリに鍛えるつもりは一切ない。
ユウリはぼやけた目を擦りながら、窓とカーテンを閉めて眠りについた。
ユウリは意識が落ちる直前、頭を撫でるゴウキを思い出した。大きくてごつごつとした手は、いつの記憶でも温かかった。