第一章 第三話
「ユウリ」
「なに?」
同じような月日を同じように繰り返し、ユウリはまた一つ歳をとった。何も変わらぬ日々の中で、ユウリに起きた変化、否成長もまた、穏やかなものだった。
まず、ユウリは調子の悪い日がかなり少なくなった。虚弱な体質は未だ健在ではあるのだが、喉や頭の痛み、発熱といった大きな不調はほとんど起きなくなった。だが、ユウリに言わせてみればそんな変化は微々たることに過ぎない。
最も大きな、まごうことなき成長。それは、ちゃんとした料理を作れるようになったことだ。複数の野菜を使い、あらゆる素材の特性を意識した調理を知った。すなわち、野菜の味、食感の組み合わせを理解した、ということだ。それは二人の生活を飛躍的に改善し、ユウリの持つ肉への拒絶感も和らげていった。
そんなある日、二人はいつものように食卓でユウリが作った料理を囲んでいた。体が良くなってきたユウリは一年前と比べるとかなり多くの料理を食べているが、ゴウキはそれでもユウリの五倍以上は食べる。ユウリがいつものように遅れて食べ終わると、食事を終えたゴウキがじっとこちらを見ていた。
ユウリが疑問の意を込めて見つめ返すと、ゴウキが口を開いた。
「お前もこうして成長したことだ。そろそろお前にも、聖術を教えておこうと思う」
ユウリの自覚する成長とはすなわち、美味しい食事ができるようになったことだ。それが関係するのかはユウリにはわからない。そもそもユウリは、美味しいものを食べるために料理というものを身に着けたに過ぎないのだ。ゴウキとて、特に大きな考えもなく、ある程度の年齢になったら通過すべき儀式のようなものとして捉えていた。例えユウリが料理など知らなかったとしても、ある程度健康になった段階で教えていただろう。
しかし、ユウリが自分で料理をしようとしなければ肉への苦手意識は増すばかりで、これだけの期間で好調に向かうことはまずなかった。ただ一つ確かなことがあるとするならば、この聖術こそがユウリの人生を変える重要なものだった。彼女の内に眠る才能が、日の目を浴びるきっかけだった。
「なに?せいじゅつ?」
「ああ。人によっちゃ魔術だとか奇跡だとか、まあ名前はなんでもいい」
「教える、ていうのは?」
「使い方を、だ。聖術が使えるだけで色々と便利なんでな」
「便利なんだ。なんでこれまでは教えてくれなかったの?」
ユウリにゴウキを責める意図は全くない。そしてゴウキも、ユウリは真っすぐに言いすぎてしまうだけということを十分に理解していた。
「便利なんだが、その分危なくもある。だからあんまり早く知っちまうのも良くねえんだよ。だがまぁ、お前は十分賢い。最近は体も強くなってきたみてえだし、教えるには丁度いいだろ」
「それがどんなものかわからないから」
丁度いいだろ、なんて言われてもわからない。ゴウキに聞いたつもりはなかったが、ユウリは成長して会話における言葉の意味をそのまま考えるようになっていた。
「がっはっは!そりゃあそうだ。じゃあ手っ取り早く見せちまうか」
ゴウキは空中に何かを書くように手を動かすと、ぼそぼそと何かを呟いた。すると、その数十センチ奥の空間に突如、小さな炎が発生した。
「これが、聖術だ」
その炎は通常の火とは違い、雫型の透明な瓶に入っているかのように不思議なふるまいをしていた。上のほうはピンと張り詰めたまま、微動だにしない。
ユウリはその不思議な光景に心を奪われていた。これが、聖術。確かにこれまで経験したどんな事象とも違っていた。だが、それと同時に似たような現象が身の回りにいくつもあることに気が付いた。それは聖具だ。聖術というものは初めて経験したユウリだったが、聖具には物心ついた頃から触れていた。空間を照らし、食材を温める。
恐らくそれらの道具も、この聖術というものと繋がっている。ユウリは見えているわけではなかったが、直感でそう感じていた。
「とまあ、こんなところだ。他にも水が創れたり、風が起こせたり、使い手によっちゃあ剣を作るなんてこともできたりする。すげえだろ?」
ゴウキは、あえて危険で派手な聖術を使って見せた。熾したのは小さな火だったが、そもそも聖術で火を熾すこと自体、日常生活では使う機会がない。ユウリに聖術へ興味を持ってもらうため。それも目的の一つではあったが、それ以上に、ゴウキはユウリからの尊敬を得たかった。ただでさえユウリは聡く、狩り以外のことであれば、ユウリはゴウキ以上に完璧にこなせるようになっていた。更に看病する機会も減り、二人の関係は対等になりつつあったのだ。
「ねえ、さっきのもう一回見せて」
「おう!あんまり近づくんじゃねえぞ」
ゴウキはユウリの声色に、興味、尊敬といったものを感じてかなり喜んでいた。まだユウリの親代わりであれる。そう思い、意気揚々と聖術を使った。ユウリがゴウキではなく、その火だけを見ていることには気が付かなかった。
ゴウキがもう一度、聖術を使った。指で中空に何かを描きながら、口ではぼそぼそと唱えている。ユウリはそれを、もう一つの視界で見ていた。
ゴウキが聖術を使うとき、白い紐が指先へ押し込められる。その指で描くと、ペンから出るインクのように、紐が線になる。そして何かを言い終わると同時に、白い紐でできた絵のようなものが前方へと飛んでいき、火ができる。一度目は火の形に夢中で気が付かなかったが、火が消えた後にゴウキの指にある紐がいつもよりも多かった。二度目、瞼を閉じて見たことで確信に変わった。
聖術は、生き物の体にある紐を使っている。
「ゴウキ!あ……」
ユウリはそのことをゴウキに伝えようとしたが、すぐに思い出した。その紐が見えているのはユウリだけ。ゴウキや村の人達には見えていないことは、幼いユウリでもすぐにわかった。そのことをゴウキに教えることはできない。知られたくないわけではない。ただ、生まれて初めて心に沁みついた恐怖が、まだぬぐい切れていないだけなのだ。
「うん?どうした」
「いや、あの火も、普通の火みたいに消えるのかなって」
「消えるってぇと、ああ!水をかけたりするとってことか!」
「そう」
「消えるぞ。普通の火とおんなじだ」
「不思議だね」
「そうだな。いや、それにしてもユウリ。お前、本当にかしこいなあ!」
「うん?」
「俺が初めて聖術を教わった時なんてなあ、そりゃあ興奮したもんだったよ。いつでもどこでも火が出せる。水が出せる。それだけで一杯一杯だ」
「ゴウキらしいね」
ゴウキは大きな声で笑いながら、ユウリの頭をわしゃわしゃと撫でた。その温かさが、優しさが、今は少しだけ痛かった。