第一章 第一話
初投稿です。一話目は長めですが、次話からはもう少し短いです。
世界には様々なルールがある。赤く実った果実はいずれ樹から別れ、あらゆる水は巡って我々の肉となる。
その世界のルールもまた、意思の干渉できない無機質なものとして存在していた。
一つ法則が決まれば、その檻の中に無限の存在が生まれる。世界の誕生を決めるとしたらこの時だ。
だが、その世界は大きなエネルギーを持つが故に、非常に不安定なものだった。
その偏りを調和せんとルールのために創り出された意思。それこそが正に神と呼ばれる存在。
神は、悠久の時をその調停のために存在していた。
神は最初、自らの持つ意思を自覚できなかった。しかし、自らの手で浄化された存在が魂となったことを知り、その内に眠るそれを知った。
神は歓喜した。悲哀し、激怒を飲み、快楽に溺れた。
神の意思は、魂の循環こそが自らの意味であると考えた。
ハイゼン王国。輝かしい王宮も夜闇に隠れ、臣下達も寝静り雨音だけが響いていた。
表の玉座から最も遠く、入り組んだ廊下の先から産声が上がった。声の元は古ぼけた扉の中。重量感のある扉の隙間から差し込む光は、外に立つ騎士を薄く照らした。
外見からは検討も付かないほどに綺麗な室内には、選りすぐりの国属医師が四人。そして、息の荒い王妃と黙りこんで彼女に手を重ねる王、まだ目も開かない王女がいた。
ハイゼン王ルーヴィンはまだ若く、彼女は一人目の子供だった。王は妻を愛していた。妾を作るつもりはなく、また体の弱い妻に出産という負担を何度も負わせたくはなかった。
そんな思いに答えてか、難産を乗り越えて一人目の王女が産まれた。医師達によれば、王妃は疲労こそしているが命に別状はない。
にも拘わらず、王の表情は明るいものとは言えなかった。
王妃の手をさすっていた王は、視線はそのままに立ち上がった。
「……これは、病か」
王は誰ともなく問うた。だが、医師達は一人として答えない。否、答えることができない。
王とて、その症状に心当たりがないわけではない。病ではないということにも薄々勘づいていた。
「べリス、べリスよ。答えるのだ。娘のそれは、治るのか」
「……王よ」
「答えい!」
小さな桶で産湯に浸かる王女には、青黒い火傷のような痣が全身に広がっていた。
静まり返る部屋で、赤子の鳴き声だけが聞こえる。
「これは、この痣は高度な呪いの証でございます」
「この国に、解呪できる者はおるか」
「……そもそも、呪いの解呪をできるのは高位の宣教師のみでございます。これほどの力をこめた呪いなど、解ける者は」
「……我が命を代償としても、か?」
「王よ!いけませぬ、そのようなこと!」
三人のうち一人の医師が声を上げた。彼は王にその実力を認められ、貧民街から王族医師に抜擢された。彼は誰よりも王に感謝し、心酔していた。
その声には誰も答えず、べリスはただ、王に聞かれたことを答えた。
「親族を贄とした解呪は確かに存在すると存じます」
べリスは王と古くからの友人だった。誰よりも信頼され、王女の出産にも一医師として立ち会った。
彼は王と友であったことを産まれて始めて後悔した。
「ですが、この呪いを退けるには、あまりに力不足にございます」
「呪者の特定には、どれほどかかる」
呪いを解呪する手段はあまり多くない。その中で最も確実に解呪できる手段として、呪いをかけた呪者を殺すというものがある。
「ルーヴィン、あなたも知っているでしょう。呪者の特定など、夢物語の」
王は壁を殴りつけようとした。が、寸でのところで腕を止めた。数十年鍛え上げた腕力が巻き起こす風が、重厚な扉を揺らす。赤子の声は止まらない。
王は脱力したように腕を垂らし、何とかべリスを見た。べリスはその姿に、幾星霜ぶりかの涙を零した。
「あ……なた、あの、子は」
数瞬の沈黙の後、王妃は苦しそうに声を上げた。今、言わなければならない。彼女は掠れる意識を必死で保った。
王は再びしゃがみ込み、優しく王妃の手を握った。
「リラ、喋らなくていい」
「あ、の子は、だいじょ……うぶ。わたしたちで、まもり、ましょう」
「リラ。そうだね」
ルーヴィンはリラートに微笑みかけ、安心したリラートは眠りについた。
王妃リラートはルーヴィンの考えを知っていた。一国の王女が呪われていては国民に不安が広がってしまう。仮に隠し通すにしても、他国や現王に対抗する勢力にとってこれ以上ない隙となる。
そのことを踏まえた上で、王宮内で誰にも知られることなく育てよう、と伝えようとしたのだ。王女としてではなく、愛すべき娘として一生守り続けよう、と。
彼はリラートの言葉を聞き、決断を下した。
彼は王女が産まれることを知る者が最小限になるようにしていた。赤子である王女の命を狙う者は多い。どんなことがあっても王女が最低限、護衛をつけることができる歳になるまでは王宮内で育てるつもりだった。
だが、こうして隠匿し続けてきた理由はそれだけではない。もし、万が一王女に産まれながらの障害があった場合に、民に知られずに処分するためでもあった。
処分するとは言っても殺すのではない。比較的穏やかな田舎町に養子として送り届けるのだ。争いはなく、気候も安定している、隠居先の第一候補の町へと。それはすなわち、王という座を退くまで会えなくなるということだ。会えたとしても父として母としてではなく、赤の他人として、である。もし王女が他の町へと移住していれば、一生会うことはできなくなる。
「影牢」
どこからともなく黒い人物が現れる。黒に包まれたシンプルな服装で、王ですらその気配を感じることはできない。
「娘を、頼む」
その人物は頷くことすらなく影に消え、王女の姿は既になかった。
「リラ……」
王妃には眠りについており、医師達も一歩たりとも動かない。再び無音となった部屋で、雨音だけが聞こえていた。何も知らぬ国民は、いつもと変わらぬ朝を迎えようとしていた。
「おーい、ユウリ、起きてるかー?」
扉を強く叩く音が聞こえる。声を張り上げて答えようとするが、喉を勢いよく空気が流れただけでせき込んでしまう。
肺の痛みに耐えながら立ち上がり、扉を開く。
「ん?今日はきついか?」
「うん。少し」
「そうかそうか。飯は食えるか?」
「多分」
「よしっ!食えるうちに食っとかないとな!」
目の前の大男、ゴウキは笑いながら答えた。その勢いのままに大きな手でユウリの頭を撫でる。
ゴウキは事あるごとにわしゃわしゃと頭を撫でる。そのたびに綿のような白い髪が絡まってしまうので好きではなかったが、ユウリは拒むことをしない。それがゴウキなりの愛情表現であると理解しているからだ。
「じゃあ先に降りてるからな!」
無言で頷いてドアを閉じる。ユウリの自室は二階にあり、窓は閉じられて朝でも昼でも日光は入ってこない。その理由はユウリ自身にある。ユウリの体には、生まれつき醜い痣がある。その痣自体は服を着れば十分に隠せるものだ。しかし、とある条件下で顔や指先にまで痣が広がってしまう。それが日光である。ある程度までなら何の問題もないが、日差しを直接浴びるようなことがあれば、焼けるような熱と共に痣が肥大化する。
対策ができないわけではない。ユウリと全く同じわけではないが、似たような病気は他にも存在する。日光に弱く、少しの日差しで火傷になってしまうらしい。だが、重い病であればあるほど対策も優先して生み出される。慣れた暗さの部屋には、ベッドと新品の机、姿見、背よりも高いクローゼットがある。クローゼットの中にはいくつかの作業用の服と、真っ黒なレインコートのようなものがある。
遮光服と呼ばれるそれは、全く日光を通さない素材でできているらしい。更に不思議なことに、布で覆えていない部分も日光の影響を受けなくなる。そのため遮光服を纏っているだけで、真昼も堂々と外を歩けるようになる。
クローゼットの遮光服を軽く羽織り、ベッドの反対側にある窓を開ける。まだ登りきらない太陽から真っすぐ光が差し込む。日光に弱い体をしていても、朝日は気持ちのいいものだ。
部屋が明るくなったことで姿見に映る自分が良く見えるようになった。一度も切ったことのない髪は腰あたりまで垂れており、純白とは言えないまでもかなり綺麗な白色だ。肌もゴウキと比べればかなり白く、瞳は薄い赤色をしている。左右のバランスを見ながら髪を一本にまとめ、下の階へと降りる。
階段を降りて正面にあるテーブルには既に料理が並んでいた。薄っすらと、焼けた肉や調味料の臭いがする。
「ゴウキ」
喉の調子が悪いのであまり大きな声は出せなかったが、すぐに奥の部屋から出てきた。
「おう。じゃあ飯食うか!腹ぁ減ったしな!」
「うん」
二人で向き合うようにして座り、食器を手に取る。
「最近いい肉が入ってな。脂の少ない部分を選んだんだが、どうだ?」
「いつものよりは」
「そりゃあ良かった!またあの肉を見かけたら買ってこないとな」
「野菜が、美味しい」
「そうか。野菜をよう食べるのはいいことだが、肉は食わにゃいかん。その皿の分は食べてくれよ?」
「うん」
ユウリは小さな口を何とか広げ、ゴウキと同じように肉に齧り付く。だが顎の筋肉が足らず、歯を擦り合わせるようにしながらなんとか食い千切った。それだけで顎が疲れてしまい、ゆっくりと咀嚼する。ユウリが一口目を飲み込むまでに、ゴウキは十倍近くある肉を食べきってしまった。
「食った食った。じゃあ俺は罠を見てくるよ」
「うん。気を付けて」
ユウリがこうして肉を食べられるようになったのはごく最近の話だった。去年までは野菜しか食べられず、口に含んだだけで吐き出してしまっていた。
そんなユウリのためか、ゴウキは狩ってくる動物の種類を増やしている。ユウリでも食べやすいような肉を探っているのだ。その分罠の数や狩りに行く時間も増え、時々、ではあるが傷を負って帰ってくることもあった。
ユウリは幼いながら、そんなゴウキを心配し、同時に申し訳なく思っていた。どんな動物を狩ってこようが効果がないことを知っているにも拘わらず、そのことをゴウキに説明できない。そんな状況が増々ユウリにどうしようもない虚しさのようなものを植え付けていた。
だからユウリは、ゴウキが外に行くときは必ずその体を視るようにしていた。
産まれて初めて目を開いたとき、ユウリの視界は二つの情報が重なっていた。空間を飛び交う光が結ぶ像と、生物の体を塗りつぶすような眩い白。まだ発達していない新生児の脳では、処理しきれないほどの情報だった。
その結果、ユウリは三歳になるまで目を開くことができなかった。だが、心配に思ったゴウキが医師を呼ぼうとしていることを知り、その翌日に目を開いた。ユウリは目を閉じている間、二つの視界の分断を試していた。その結果、白い光を見るのであれば目を開く必要がないことを知った。最初は生き物が白く見えるだけだったが、その視界に慣れていくにつれて白い紐が絡まっているということに気が付いた。
その紐はユウリに様々なことを教えてくれた。紐の太さや密度を見れば、その生き物の不調がわかる。
だが、目を開いている間はその紐を見ないようにしていた。同時に見ることもできないではないが、頭が痛くなってしまう。そのため、白い紐を確認するときは目を閉じる。
ユウリは毎朝、ゴウキの体の中の白い紐を見ていた。昨日けがをしたと言っていた、左足付近の紐が密度を増している。それ以外は全身をなだらかに満たしている。あの程度なら不自由は感じないだろう。本人には痛みすらないかもしれない。
安心したユウリはそのまま、目の前の小さな肉の塊を見る。干す、運ぶなどの過程を通して、白い紐がかなり少なくなっている。生の肉であればもっと長く太い紐が残ってしまうのだ。
それでも決して美味しいものではない。できることなら白い紐のない、野菜だけを食べていたいがそういうわけにもいかないらしい。肉を食べるのは苦痛でしかないが、食べれば食べるだけ筋肉やエネルギーとなっていくこともわかっている。白い紐が多いほどその効率が高いことも。
どうやら、この体は白い紐を拒んでしまうらしい。生き物の体内を満たしているあたり悪いものではなさそうだが、ユウリ自身の体の中には存在しない。もしかしたらそれこそが体が弱い原因なのかもしれないが、調べる術はない。成長と共に拒絶感は和らぎつつあるため、いずれ治るだろうという楽観的な部分もあった。
ゴウキが家を出ててから二時間後、ユウリはやっと空になった食器を洗い、家の外へ出た。
ドアを開けた正面に門があり、そこを中心に家を囲うようにして太い柵が立っている。門より左側には正方形に近い畑があり、門より右側には狩った動物を処理するための小屋がある。いつも何かしらの臭いが漂ってくるが、臭いという感覚そのものが麻痺しているので気にならない。ユウリは畑へ歩み寄り、育っている植物を一つ一つ確認した。葉の色や茎の固さ、実のでき方などから病気がないかを確認する。異常が無ければジョウロを使って満遍なく水をやる。
体が弱いこともあってそれだけの作業でもかなり疲れてしまうが、ユウリは進んで作物の世話をしていた。動きが遅くとも、日課のようにこなしているうちに知識が増えていき、作業は効率化していく。ユウリはその過程を楽しんでいた。
ユウリ達が住んでいる場所は森の奥らしく、ゴウキが町に買い物へ行くときには丸一日かかる。その森は特殊なようで、年中気候が変わらない。ゴウキ曰く他の土地ではそんなことはないようで、理由はわからないが農業には最適な場所だ。
とある畑の近くにしゃがみ込み、収穫が近づきつつある作物を眺める。植物の中にはあの白い紐がない。動物にも負けずとも劣らずの生命力を携えているため、どんなものが白い紐を持つのか気になることはある。だが、そのことについて知っておく必要もない。ユウリはただ、自らを受け入れてくれる植物達が好きだった。
小さな緑色の実が重そうに垂れている。茎はそこまで高くはなく、まだ幼いユウリとあまり変わらない。ふと、その実に触れてしまいたくなったが、一度収穫前の実を落としてしまったことを思い出した。軽そうに見えても、水分をしっかり含んでいるためある程度の重量があるのだ。
畑の作物の様子を確認しきると、畑と畑の間に寝転がる。真正面に空があり、視界の左右には育ちかけの作物が見える。これもユウリの日課の一つだ。畑仕事が終わった後はこうして寝そべって空を見る。柵の外には出られないため範囲は限られるが、こうして畑で寝ると毎日少しずつ景色が変わっていく。そんな変化もはっきりわかるほど、植物が好きなユウリだからこそできる楽しみ方だった。
二日前は雨が降っていたせいで、昨日までこうして寝転がることができなかった。ユウリ自身はちょっとやそっと濡れることなど苦ではないのだが、ゴウキが心配するので雨が降っているときは外に出ないようにしていた。
雲の流れる速さを観察し、それに飽きると目を閉じて空気を感じる。これはユウリ自身も言語化できないのだが、五感を全て閉じると体が広がっていくような感覚が訪れる。肉体が大きな風船になって周りを取り込みながら浸食していくような、奇妙な感覚だ。広がった感覚の内側にある空間は、曖昧ながら何がどう動いているのかを把握することができる。目で見るような綺麗な像を結ばない分、現在地からは見えないような場所でも何となくわかるのだ。
感覚を徐々に押し広げていくと、木にできた洞穴から小動物が逃げていくのがわかった。感覚を広げているときは、あらゆる動物がその範囲から逃げていく。野生の動物は勘が鋭いと言っていた。恐らく自身が発している何かしらを感じ取り、逃げているのだろう。それはユウリが白い紐を拒絶するのと似た感覚なのかもしれない。
少し強い風が吹いた。乱雑なようで整った配置の樹木の枝が、さやさやと揺れる。それは波のようにこちらへ向かって進んでくる。閉じた感覚の向こう側から葉が擦れる音が近づいてくる。目を開くと同時に涼しい風が体温を奪って行った。視界の端で小さな実が揺れている。
ユウリは自分が恵まれているとは思わなかった。ただ、穏やかで心地良い日々が続いて欲しかった。