偶然
「有里さん、どうしてここに」
「伸先生。あっ」
僕はとりあえず膝の手当てを先に施した。
「ありがとうございます。大丈夫です、自分でできます」
「びっくりしました。有里さんは心肺蘇生法の講習を受けたことがあるんですね」
「あ、はい。実は私、看護師でして」
「看護師。それで手際が良かったんですね」
「伸先生の絵を見に行ってきた帰りだったんです」
僕の絵の。
「居合わせたとはいえ、大変でしたね」
「いえ、私が勝手にやったことですから。伸先生、それよりもし良かったらお食事でもして帰りませんか?」
素敵な女性から誘われて嬉しくない男などいまい。
「もちろん。同じことを言おうと思っていたんですよ。レストランにします?居酒屋?」
「居酒屋!」
「じゃあ大将の店に行こう」
大将の店は相変わらず混んでいたが、気持ちよさそうに酔った中年男性たちが楽しそうに談笑している。
「おう、伸ちゃん、いらっしゃい!お連れさんも!」
「こんばんは」
有里さんが丁寧に挨拶する。
「何にする?今日は活きのいいのが揃ってるよ!」
「じゃあ、私、お刺身!」
「僕も」
「あいよっ!」
大将は嬉しそうに注文を取る。
「伸ちゃんが女の子を連れてくるなんて何年ぶりだろうか」
お通しを吹き出しそうになった。
「ちょっと大将、そんな話いいでしょ、今でなくても」
「いやいや、俺は嬉しいんで。お連れさん聞いてくれよ」
「はい」
有里さんはニコニコと楽しそうに答える。すでにビールを一本空けていた。
「有里さん、乾杯忘れてますよ」
「あらま」
改めて乾杯をするが、大将の話は止まらない。
「伸ちゃんにはずーっと好きな女がいてね。けどその子には忘れられない男がいた。三角関係ってやつだ」
「あらぁ。世知辛いですねぇ」
「ようやく伸ちゃんが口説いたと思ったら、結局その男に持ってかれちまってよ。こいつ10年の恋に失恋したわけよ。慰めてやってくれ、姉ちゃん」
「まぁ。それは辛いですね」
10年でなく14年だ。と、そんなことは今更どうでも良い。
「大将、もうやめてください。傷が疼きます」
冗談ぽく抗議する。
「有里さんも、大将の話はあまり真面目に聞かないように」
「あら、ま。じゃあ代わりに伸先生の絵の話を聞かせてくださいな」
「それはもちろん。是非もなく」
そのまま僕たちは絵画教室や塾の話題で盛り上がった。
帰り道はもう夜もすっかり更けてしまっていた。
「有里さん、よければ近くの駅まで送って行こうか?」
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
夜の中心街は歓楽街に姿を変える。酔っ払いたちがフラフラし、座り込む者までいる。女性一人で歩かせるには不安だ。
二人で歩いていると、有里さんは突然、こんなことを言い出した。
「伸先生の『セレーナ』、観てきました。先生、あのモデルの女性を愛してるんだなって、すごく伝わりました」
「どうしてそれを?」
「セレーナを観ていると、女神に愛されている気持ちになるんです。セレーナに愛してるって言われているみたいに。それって、伸先生が一番欲しかった言葉なんじゃないかって」
「……」
「きっと伸先生、その女性を深く愛してたんだなって伝わるくらい、セレーナはそういう作品です」
痛いところを突かれた。美月への想いを思い出し、切ない感情が湧き上がる。
「有里さん。あなたは本質を見抜く力があるんですね」
「私が特別なわけじゃないですよ。セレーナはそれくらい傑作です。観た人誰もがそんな感情になるんです。伸先生の気持ちが強く表れているんです」
「恥ずかしいなぁ」
「恥ずかしがることないですよ。誰かを深く愛せるなんて素敵なことです。私も経験してみたい」
「そうですか。有里さんなら素敵な男性を捕まえられますよ」
有里さんが僕をじっと見つめた。
「伸先生は、案外鈍いところがありますか?」
「えっ?」
「なんでもないです。あーあ。私も先生のモデルになってみたいなぁ」
先生のモデルになりたいと言われるのはこれが初めてではない。幾人かの女性に言われてきたが、その度に丁寧に断ってきた。だが。
「有里さんなら大歓迎です。有里さんは着物が似合いそうですから、和装がいいかな」
冗談ではなく、本気で答えた。
「和装。ふふ。ありがとうございます。冗談でも嬉しい」
「冗談では…」
「駅につきました。今日はここで」
「あ、はい。気を付けて帰ってください」
そのまま有里さんは地下鉄のホームへ向かっていった。
「伸先輩?」
ぼうっとしていると、美月が声をかけてきた。隣には彼氏。
「美月。美月も中心街に来ていたのかい?」
「うん。テルと一緒に」
彼氏は僕をじろりと見た。彼女の隣でじろりと見てやるのが僕だったら良かったのに。
「先輩、さっきの女性は彼女さんですか?」
「えっ、いや違うよ。絵画教室の生徒さんだよ」
「そうなんですか。お二人、恋人みたいに見えました」
「ミツキ、その御仁はおまえに振られて傷心なんだ。あんまりいじめちゃ可哀想だ」
彼の方が横槍を入れる。
「誰かさんに横から掠め取られたからね。誰かさんが現れなければ、美月の横に今いるのは僕だったかも知れないよ」
攻撃には攻撃で返すのが僕の流儀だ。
「二人とも、それくらいにしてちょうだい」
美月が止めるので僕は矛を収めることにした。
「でも先輩、さっきの女性と一緒にいて楽しそうでした。あんなに笑っている先輩、久しぶりに見ました」
楽しそう。そう、確かに有里さんとの時間は楽しかった。
「そうか。美月にはそう見えたのか」
「はい」
それなら僕も失恋の痛みから立ち直りかけているのかも知れない。
「テルさん、美月を借りてもいいかな?もう一杯飲みたい気分なんだ」
「ダメに決まってるだろう」
「君を出し抜いて美月を奪おうなんて不埒な考えはないよ。安心して預け給え」
「ダメと言ったらダメ。美月、帰るぞ」
「えっ。私、久しぶりに先輩と飲みたい!テルも一緒に来ればいいじゃない!」
「ええ…。俺、論文の締切が迫ってんだけど」
「それなら僕と美月の二人で飲むよ。ちゃんと家に送っていくから安心してくれ。」
「安心できるか。俺もついて行く!」
二次会は行きつけのバーに決まった。