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避けられている。
アポロンは、人々が挙って賞賛する完璧な造形の眉を顰めた。
完全に避けられている。
アルテミスを除けは一番親しい兄弟であり、彼にとってただ一人気の置けない友人でもあるヘルメスに。
心当たりは全くと言っていいほど無い。
…いや、本当は一つだけ、心の奥に引っかかるものがあるが、それはあえて見ないフリをした。
オリンポスで顔を合わせれば挨拶をするし、特に表情を崩すわけでもない。
しかし、二人の間に目に見えない障壁があり、ヘルメスがそれ以上踏み込んで来ないのを、アポロンは感じた。
「悩んでいても始まらない、か…」
アポロンは取り合えず、彼を呼び出す手段を考えた。
「…アポロン!お届けものだよ」
机に向かって羊皮紙にペンを滑らせていたアポロンは、久々に聞く懐かしい声に振り向いた。
「息子さんから、珍しい蜂蜜だって。いや~、親孝行だねぇ」
楽しそうにくっと帽子のつばを持ち上げるヘルメスの笑顔は、まさに完璧に自然体であり、異常などないように見える。
多分、自分以外には。
「ああ、ありがとう」
立ち上がって、一歩そちらに近付く。
目に見えないほど僅かに、彼が体を強張らせる。
ああやはり、相変わらず、か。
アポロンは歪んだ笑みを浮かべる。
その手から蜂蜜の入った壷を受け取ると、ふっとその力が抜けるのが判った。
「じゃあ、僕はまだ他の仕事があるから」
くるり、と踵を返そうとしたヘルメスは、ケリュケイオンを持っていない方の手をアポロンに捕まれて、ギクリと立ち止まった。
「な、に…?」
「ヘルメス…私は何かしたか?」
サファイアのような青い瞳が、憂いを込めて自分を見つめる。
「気に障ることがあったなら謝る。正直、お前にそういう態度を取られると…その、困惑する」
「…えっ?」
「いや、心当たりがないなら別にいいんだが…」
視線を逸らしてもごもごと言い募るアポロンに、ヘルメスは大きく瞳を開いた。
謝る、と言われたのも驚いたが、それよりなにより。
……覚えて、ない?
いや、もしかしたら、そうじゃないかと思ったけど。
あの後、ディオニュソスにもエロスにもはたまたアフロディーテにまでさりげなく探りを入れたが、自分に悪戯を仕掛けた形跡はなかった。
だが、アポロンが覚えていないとしたら、やはり魔法の力か。
彼も望まぬ行為をさせられたことになる。
「…なんだ、やっぱり」
くくく、と腹の底から笑いがこみ上げる。
「ヘルメス?」
「いや、君のせいじゃない、君のせいじゃないから。あっはっはっはっ…」
笑いが止まらない。
あの、情欲を宿して自分を見た男は。
…アポロンじゃ、ない。
笑って、笑いすぎてひぃひぃと痛む腹を押さえるヘルメスを、アポロンの白い腕がそっと支えた。
「…お前、大丈夫か?」
「大丈夫、大丈夫。ってか、はっ…息が、でき……」
やばい、と思った時はもう遅かった。
ヘルメスの意識は、ふっと闇の中に沈み込んでいた。
「彼…最近…無理を……」
「すまないが…に頼んで…」
若い女性と、男性の声が交互に聞こえる。
水中をゆらゆら漂っているような、覚束ない頭でヘルメスは考えた。
あれは、アポロンの声か。
そう、自分が気に障ることをしたなら謝る、と言っていた。
君が謝る必要なんて、全然ないのにね。
あ~あ、なんで妙なところ真面目なんだろう。
ヘルメスはうっすらと瞳を開いて、自分がアポロンの寝室にいることに気付いた。
やがて、心配を押し隠した白い彫像のような面が、自分を覗き込む。
「なに、笑いすぎて酸欠で倒れちゃった?僕」
みっともないな~とヘルメスが笑うと、アポロンは眉間に微かに皺を寄せた。
「過労だ、寝ておけ」
「いやいや、それはないって。まだ伝令の仕事残ってるし」
「…医療の神たる私の見立てを疑うとでも?」
親父にはイリスに伝言を頼んでおいたし、休まないなら寝台に括りつけるぞ、とアポロンが言う。
「はいはい、恐いな~アポロン様」
とふざけた返事を返して布団に潜り込む。
やがて、ヘルメスの耳に、紙を積み上げるパサリという音が響いた。
首を起こすと、寝室の隅にある机に、アポロンが書類を運び込んでいた。
「…まさか、ここで仕事する気?」
「見張っていないと心配だからな。もし…私が傍にいると気が休まらないと言うなら別だが」
そこまで気を回すなよ、と言ってやりたくて、でも、やはり休まらないのは本当だろう、とヘルメスは思う。
「ただ寝てるの退屈だからさ。寝物語でもしてよ」
「子供か、お前は」
「いいじゃん。…じゃあさ、この間まで付き合っていたニンフっていうのは?」
アポロンの様子がおかしかったことの手がかりになるかも、とヘルメスは話を進める。
「ねぇねぇ、どんな子?美人?」
「変な興味を持つな」
さらさらと手を滑らせながら、アポロンが返す。
「君に振られたのを慰めるフリをして…っていうのもいいだろ?」
「……」
「あ、もしかして、アルテミスに似てる?」
「…いや、姉上には似ていないな」
アポロンはゆっくり呟いた。
「髪の色は?」
「薄茶。ちょっと灰色掛かって、綺麗な癖のない髪が腰まであって…」
「ふ~ん。確かに君の好みとしたら珍しいねぇ」
「肌が白くてすべらかで。それに瞳がとても美しかった。あんなに透き通った宝石のような目はそうはないよ」
それは本人を探すのに役立ちそうだ、とヘルメスは目を細める。
「それは、何色の…」
ガタン、と音に言葉が遮られる。頭を捻って見ると、アポロンが椅子から立ち上がって机に手を付いていた。
「…この話は、やめよう」
悪いこと聞いたみたいだな、とヘルメスは苦笑する。
「ねぇ、アポロン。もしも、記憶がない間に酔った勢いで僕を押し倒した、って言ったら信じる?」