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私は深い森の中、さらに鬱蒼と茂った森を走っている。ここは森の聖域、動物さえ、虫さえ近寄らない禁足地だ。しかし葉や枝にぶつかることは一切ない。これが森林からの愛されているということなのかぁ、としみじみ感じながらしばらく走っていると、遠くに光が差し込んでいるひらけた場所が見えた。そこまで走るとそこは円形の広場のようになっている。そして、樹木が密集することによって天然の防壁が形成されていて、外敵の侵入を妨げている。私が入ってきた場所の他からは、ここに光が差し込んでいることもわからないであろう密集具合だ。地面には柔らかく揃えられた草が生え、何も敷かなくてもぐっすり眠ることができそうだ。円の中心には小川が流れていて、大きな柳の木がその傍に佇んでいる。そしてなにより目を引くのは、その木の下にかかる飴色の木でできた橋である。特に派手な装飾が施してあるわけではないのにもかかわらず、不思議な力を感じる。
その橋の上まで歩いていくと、深い緑の生地に、黄金の装飾があしらわれている立派な衣服を着た、盲の幼児が寝ているのが見えた。
私の名前はイルカ。この森に住んでいる17歳の女の子。今日は姉の一人息子カジュオウに会いに来た。
私の名はイルカ。この森に住んでいる17歳の女の子!今日は姉の息子カジュオウに会いに来た!
私はおおげさに足音を立てて、その子どもに近づき、声をかける。
「こんにちは、カジュオウ!」
カジュオウはゆっくりと起き上がり、口をひらく。
「イルカ…?きてくれてうれしいな」
カジュオウを抱き抱えると、まだぽっこりと膨らんでいるお腹と、特有のいい匂いがなんとも私の母性を刺激してくる。S-Cute、つまりスーパーキュートな甥っ子だ。
「最後に姉さんが来たのはいつ?」
カジュオウが寂しそうに答える。
「20年くらい前かなあ」
カジュオウは2.3歳くらいの幼児に見えるのに、すごくよく喋ることができるなあと思う。それにしてもこんなに可愛い子を20年も放置だなんて!
「私が最後に来たのはいつだっけ?」
「昨日も来てくれたのに忘れちゃった?」
「いいや、姉さんへの嫌味だよ。」
「嫌味?」
「なんでもないよ。それじゃあ、お姉さんがカジュくんと遊んであげよう!」
「いいの?僕かくれんぼしたい!」
「じゃあ私が鬼をやろう。10数える間に隠れるんだよ。」
「うん!」
カジュオウがふわりと飛び動き出すのを確認したあと、目を閉じ数え始める。
「10…9…8…7…6…」
10数えると目を開き、辺りを見まわす。こんな開けた場所に隠れる場所などない。橋の下に隠れているに決まっている。私はわざと橋の方から視線を外し、キョロキョロ辺りを見回しながら、見つからないふりをする。すると、橋の方からくすくすという笑い声がする。やはりそこにいるのかと思いながら、少し離れてみる。私はしばらくそんなことを繰り返した。私は子供の扱いが上手いのだ。ちゃんと子供を楽しませることも仕事のうちだ。そろそろ頃合いかな、と思い、パッと身を翻し、橋の下を覗き込んだ。
「見…!」
言葉は続かなかった。
橋の下には、見つかっちゃったあとニコニコするカジュオウが座っていた、そして、その後ろには巨大で全く毛のない熊のような動物が詰まっていた。ぎゅうぎゅうに詰め込まれて一つの大きな塊のように見えるそれは、黒く光る6つの目でかろうじて3頭いることがわかる。え、何。そう思うとほぼ同時にその熊の奥から唸っているようなくぐもった声が聞こえてくる。
『ミ゛ぃヅゲダあああああああああぁあ!!』
カジュオウの手をぱっと掴むとそのまま抱き寄せ、背負っていたカゴに放り込む。そのまま後ろを振り向き、『糸』にのって走り逃げ出した。
私はつい最近、不思議な力を手に入れた。私には世界の『糸』が見えるのだ。『糸』は白銀に輝いていて、触れることはできない。『糸』は全てのモノを通り、全てのモノに通じている。地面には完全に等間隔で、放物線が連なったようにように『糸の道』ができている。そして、この『糸の道』がモノ、地面を通して現れてくる地点である『糸の始点』を踏めば、『糸の道』が次のモノ、地面に消えていく地点である『糸の終点』まで、『糸』の軌道に沿って、物理法則を外れて移動することができるのだ。これによって、私は通常の人よりも早く移動することができるのだ。
『糸』に乗り、広場を出て森を走り出すと、熊のような三頭の動物が追いかけてくる。私は糸を踏んでいるから、かなりの速度が出ている上、木々などの障害物にもぶつかることなく走れている。それにも関わらず、三匹の獣との距離はだんだんと近づいてきているようだ。
ふとカジュオウが籠から頭をだしていった。
「アジャマゴイ!」
「アジャマゴイ?あれのこと?」
「うん」
カジュオウは見えているのか。一瞬そんな疑問が頭をよぎったがすぐにそんな暇もなくなった。アジャマゴイのうち一頭が私のすぐ後ろまで迫ってきている。
「川に逃げて!」
川!川はどこだ。『糸』を踏んでいるとはいえ、この森では木々が視界を遮っていて川を見つけることなど容易ではない。ましてやこんな森に川などあるのか。私は必死に走っている。
するとカジュオウが
「左の『道』をいって!」
とカゴの中から叫んだ。
左側の前方をみると確かに『糸の道』の始点がある。しかし、その始点からはとても細い『道』が続いているだけだ。
「だめだ!これじゃあ追いつかれちゃう!」
『糸の道』はふつう、力がある始点を持つほど太くなり、明るく輝き、それを使う者に力を与える。それに対して、左側に向かって伸びる『糸の道』は、あると言われなければ気付けないほど細い。
「その道にいかないとイルカ食べられちゃうよ!」
私は迷った。カジュオウには私が持っている力より、さらに不思議な力があることは明らかだ。私も『糸』の力を利用し、低重力のような状態になることができるが、先ほどカジュオウは完全に重力の影響を受けず、浮遊しているように見えた。それに、私は目で『糸』を見ることができるが、カジュオウは目を使わずにものを観ることができるようだ。このまま走っていても、川を見つける前に私の体力が尽きてしまうだろう。『糸』の力を使っても体力には限界がある。私はカジュオウを信じることにした。覚悟を決めて、細い『糸の道』の始点を踏んだ。瞬間、私は禁足地を抜け、大きな川の水面に浮かぶたくさんの石の中の一つの上に立っていた。川の水面には等間隔で拳大の石が浮いていて、不思議とその位置は固定されているかのように動かない。『糸』によって相互に固定しあっているようだ。
アジャマゴイたちは川岸で立ち止まり、悔しそうに唸りこちらを睨んでいる。どうやら彼らは川を渡れないらしい。私はカゴをおろし、中を覗き込むと尋ねた。
「怪我はないかい?驚かせちゃったね」
カジュオウは笑って答えた。
「ううん、カジュたのしかった!次はお魚さんが鬼になるみたい!」
お魚さん?
するとこちらを見ていたアジャマゴイが2本足で立ち上がり、ひょこひょこと河岸に近づくと、意を決したようにその大きな鍵爪で自分たちの喉を切り裂き、川に倒れ込んだ。川にどくどくと血が流れていく。奇妙なことに、アジャマゴイの血は止まることなく、むしろ次第にその量を増やしていく。そして、さらに奇妙なことに、その血は川下から川上に向かって、川を赤く染めていくのだ。目に入る限りすべての川が赤く染まったところで、あたりが急に薄暗くなり、雨が降り始めた。周囲からは虫や動物の鳴き声が、なにやら呪文を唱えているような不気味なハーモニーを奏でている。ここの虫は仏教徒に違いないなどと考えていると、川下のほうからそのハーモニーが次第に大きく聞こえてくる。音が耳が痛くなるほど大きくなる頃、川下に何かが見えてきた。
その何かはものすごい速さで川を遡上し、まっすぐこちらに向かってくる。私が、籠をかかえ、ぱっと他の石に飛び移った瞬間、さっきまで私たちがいた石が噛み砕かれ、粉々になって飲み込まれていった。
その何かは鮫だった。正確には巨大な鮫の頭をもつ怪物だった。体長はゆうに10メートルを超える。その体には鱗の代わりに人の歯が生え、牙の代わりに人間の手が生えている。
「こらこら素手で石を砕くなら残心までとらないと、、」なんてことを考えていると怪物がこちらに迫りながら口をひらく。
「ゴンにぢばあああああぁぁあああ!…?!」
その口でしゃべれるんかい。サメの真っ黒な目と私の目があう。気付かれたか…?
「カジュ!どうしよう!」
「岸に上がって!鱶王は陸に上がれないもん!」
「鱶王っていうんだあれ。」
「そう。悪い神さま。なんでも食べちゃうからきをつけて!」
私は川に浮かぶ石を始点に岩から岩へぴょんぴょん飛び跳ね『糸』を辿って岸に急ぐ。源義経は自分の脚力だけででこんなことをしているのだから立派なものだ。しかし、あと二つほど石を踏めば岸に着くというところで、サメが周りこんできた。仕方なく私は川上の方の石を踏み、『糸の道』をとおって川上に向かう。
「ダメだよイルカ!」
これまで落ち着いていたカジュオウが急に焦ったように言った。
「このままだとは胎辱暗母の巣に入っちゃうよ!」
「また、悪い神でしょ!」
「ちがう、善い神。でも巣に入ったら体をどろどろに溶かされちゃう。」
「いいこと考えた」
そういうと私は川上に向かって全力で走った。鱶王は殺しておかなければ。