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2 『おばあさんと狼』

「死ぬのか、エルザ」


「ああ。私はもう死ぬんだよ」


 おばあさんの名前はエルザと言った。おばあさんが横たわるベットの脇には、天井ほどの身長の大男が立っていた。男の頭は純白の狼であった。立派な尻尾を垂らして、静かにおばあさんを見下ろしている。


「死ぬのか、エルザ」


「死ぬんだよ。寂しくなるね、神様。いいや、うん、お前さんの名前はヴァルウスだ」


 狼の神はヴァルウスと言った。かつて名を持たない獣の神であった狼に、ある少女が名前をくれたのだ。古い言葉で白の狼という、単純な名前だ。しかし狼は気に入っていた。人から物を貰う代わりに禍を払うだけの関係ではなく、人間と仲良くなった、そんな気がした。


「俺は、弱くなったな」


「あたしは、強くなったよ。あの日からね。それに今、ようやく全てを理解できた。あたしが助かったことを」


 ヴァルウスは本当の意味での最後の村の生き残りであるエルザを看取りに来たのだ。死にそうなことは鳥が教えてくれた。何年ぶりだろうか、会いに行くと、幾らか歳をとっていたが、昔と変わらぬ強い眼で出迎えてくれた。


 エルザが、死ぬんだと。ヴァルウスは神となって初めて、なんとも言えない不思議な気持ちに襲われていた。


「もう俺も神ではないな。ただの老ぼれだ」


「あたしほど耄碌しちゃいないだろう? それにまだ大きな仕事が残ってる」


「エルザ、君は死んでゆくのだな」


「ヴァルウスもいずれ死ぬさ。世の中は移り変わってゆく。きっと暫くしたらこの森だって無くなるだろうさ」


「君は最後まで元気だ。俺はあの頃を最近よく思い出す」


 おばあさんも狼も、かつての村を脳裏に思い浮かべる。収穫祭に狼に捧げ物をして、その代わりに畑や家畜を守ってもらう。みんなが貧しいながらも仲良く暮らしていた。そんな時、エルザは狼と出会った。


「そうさね。でももうわかる。あたしはすぐに死ぬよ。この前やっと、父さんの顔を思い出したんだ。後悔の多い人生だったけど、それもまた人生さ」


「人間の生涯は短いな」


「そうかい? あたしはもう充分満足さ。結婚だってしなかったし子供もいないけど、ヴァルウスがいた。ヴァルウスのお陰で地獄から一端の人になれたんだから。いい人生だったよ」


「そうか」


 狼は窓の外に目をやって、それからおばあさんに語りかけた。


「またひとつ、命が失われた」


 おばあさんは掠れた笑い声を上げる。


「今にも死ぬあたしの前でそれを言うあたり、ヴァルウスも変わらないねぇ。まあ、甘んじて受け入れるよ」


 それと同時に新しい命も生まれるんだ、と再び笑った。


 ヴァルウスは、自然の摂理に反するやり方で命が消えた事を感じ取ったが、口には出さない。きっとエルザも覚えているから。父親が子供に投げかけるように、肉食の動物とは思えないほどの憂いと知識、優しさを湛えた瞳でエルザを見つめる。


「人とは思えないほどに優しく気高いエルザよ、また会えることを望んでいる。いいや、絶対に会うだろう。君の魂は巡り巡って再び俺の魂に出会うのだから」


「神様の祝福とは、心強いね。あたしはそろそろ逝くよ。あの子も……ヴァルウスに任せる。私の代でこの村の本当の生き残りは絶えるからね。私の目にはヴァルウスが映るように、人の闇も映る。昔を思い出した。あの子の、赤ずきんの判断、は君に任せる」


「赤ずきんなんて、もう言うな。それに、君の罪はもうーー」


「分かってるよ。でも罪は消えない。人の魂は、巡って巡って、それでまた元に戻る。この世界って物語は、そうやってできてるんだから」


 ヴァルウスは罪を知っていた。この村の罪も、目の前の心優しき老婆の罪も。そして今、これから自分が犯す罪を知覚した。殆ど全てを知る己が、かつてエルザとなぜ出会ったのか、そして今までなぜ生きながらえてきたのか、その全てを今、知覚した。


「あとは任せろ。もう、ゆっくり休め」


「ふふ、それじゃあたしは眠ることにしよう。罪を見つめて、それであなたと会った時のことを思って。私の人生は、本当にーー」


 ヴァルウスがエルザの額に自らの額をくっつける。


「神の祝福が、あらんことを」


「……あり、がとう」


 おばあさんは息を引き取った。本当に何の未練もないような、静かな寝顔のようだった。


 ヴァルウスは神として、初めて悲しみの感情を知った。森に神として生まれ変わって、初めて眷属が猟師に撃たれた時もこの悲しみはなかった。それは自然の摂理だから。人は生きるために殺し、動物もまた同じだった。エルザと出会って名前をもらって、神として未熟だった自分は変わった。エルザと共に成長して、村の変革を見守ってきた。外から大きな力が入ってきて、自らが悪者とされた時でも、エルザの住む村の人間ならばと受け入れた。当時の住民は徐々に死に絶え、ついにエルザの番が来たのだ。


 狼の頬に一筋、涙が溢れる。


「神が人間のために流す、最初で最後の涙としよう。いずれ再び巡り会うまで、過去の俺が忘れようと、今の俺は君を忘れない」


 禍の音が聞こえる。森の小枝を踏みつけて、小さな怪物がやってくる。死の香りを漂わせる人間の心が、もうすでにそこまで迫っていた。


「さぁ、哀れな怪物に相対する時だ。少女の答えが命運を分ける。選択の神よ、この若輩に力を。俺はもう一度神となろう」


 狼の神は、扉を向いて立った。今扉を開けようとしている怪物を止めるために、最後の力を振り絞って、この森の最後の神として。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 白ずきんはおばあさんの家に辿り着いた。しかしいつも出迎えてくれるおばあさんの顔は窓から覗かない。ドアを叩いても返事もない。そこで木の扉を押し開いた。きっとおばあさんは寝ているのだろうと。


 ギイと軋む扉を開くと、奥のベッドに横たわるおばあさんの姿を見て、安心した白ずきんはベッドに駆け寄った。


「おばあさんおばあさん、私が来たよ」


 しかしおばあさんは返事をしない。不思議に思った白ずきんがおばあさんの顔に自分の顔を近づけると、すでに息をしていなかった。


 呆然として立ち尽くす白ずきんは、咄嗟に獣の仕業だと考えた。悪いことは全て獣がやったんだ。自分が唯一と言っていいほど頼りにしていたおばあさんが、死んでしまった。私に呪いをかけた上、おばあさんを殺してしまうなんて!


「実に愚かな考えだ」


 白ずきんが振り返ると、そこには先ほど見えなかった巨大な男が立っていた。小さな白ずきんが見上げれば、狼の顔をしているではないか。


「獣! おばあさんをよくも、私の唯一のーー」


「落ち着け人間の子。俺は君の大切なおばあさんに手を出してはいない」


 しかし白ずきんに相手の声は聞こえていない。既に頭の中は狼がおばあさんを殺したという情報でいっぱいになっていた。


「おばあさんを、おばあさんを殺したんだ、殺しはいけないんだ、人を殺しちゃいけないって神父様も言ってた」


 狼の神は白ずきんを見下ろす。最後に人間に情けをかけることに決めたのだ。答えによっては助けようと。その膨大な心の闇を解放してあげようと。


 代わりに狼がその闇を引き受けることになっても、かつて自分が森で、熊からこの少女を助けたように、まだチャンスがあるのならこの白ずきんと話をしようと。


 そう決めた狼の神に白ずきんは言い放つ。


「おばあさんが死んじゃったんなら、もうなんにもなくていいよね。みんな死んじゃえばいいよ。だってこの村にいい人はほとんどいなくなっちゃった。お母さんも結局私を助けられなかった。神父様は他所の人間だし、他のみんなも私と関係ないよね。ね? もう生きる意味なんて無くなったよね! こんな村の人間はきっと神様が殺しちゃうよ! だって必要ないんだもん、おばあさんが死んじゃったんだから! あは、なんで、なんで死んじゃったんだっけ、そうだ、あなただよね、獣! 私にこんな呪いまでかけて、私を食べるために。それに今あなたはおばあさんを殺しちゃったんだから。あーあ、もう全部終わりだ、だけど獣、あなたは許せないよ。おばあさんを殺したんだからっ!」


 狼の神は人間の恐ろしさに毛を逆立てる。これは、自分の手に負えるわけがない。闇の深さは計り知れない。きっとこの子は駄目だ。救えない、誰も救われない、この村はこの娘を生み出してしまうのだから。


「人間の子、それが答えか。最後に機会をやろう。話し合うんだ。おばあさんを殺したのは俺じゃない。正しい心を取り戻ーー」


「うるさい!」


 狭い小屋の中で、白ずきんが二丁の猟銃を狼に突きつけた。そして迷わず引き金を引いく。耳をつんざく轟音に、空気を切り裂く死の閃光。刹那、狼の神は鋭い痛みを感じた。火薬の残滓が宙を舞って、ゆっくりと煙が晴れてゆく。


 白ずきんは弾の無くなった猟銃の引き金を何度も何度も引き続けている。


 狼は、自らの体を貫いた二発の弾丸に驚く。猟銃を見れば人間の血で濡れていた。


 そうか。先ほどの失われた命の血か。


 人間の闇が染み付いた弾丸は、確かに俺の体を貫いた。けれどもすぐに死ぬことはない。背中にエルザの魂を感じたのだ。


 早く、行け。


「人間、いや、悪魔の子よ。お前は何をしたか分かっているか」


 痛む体に鞭打って、狼は最後の、そして始まりの言葉を投げかける。それは狼にとってではなく、白ずきんにとっての。


「人間の闇、救いようのない、穢れの塊だ。お前は二度までも命を奪おうというのか。お前を思って声をかけたあの猟師、そしてこの俺さえ手に掛けようとするとは。俺は神として、生温かった。かつてお前を熊から助けるべきではなかった。信仰を忘れた村を守る必要も無かったのだ。俺はエルザだけを守ればよかった。それももう終わりだ。お前のおばあさんは最後に、君の行先を感じ取っていたぞ」


 弾の無くなった銃から手を離し、地面に倒れ込む白ずきん。


「穢れた人間、お前のやったことは許されることではない。全てを思い返せ。ここに神の力を持って、本当の記憶を見せてやろう。既に手遅れだが。お前は助からない、いや、助けない。全てを見て、そして死ね」


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


「おっと、君、耳は塞いじゃいけないよ。僕が話しているのは特別なお話なんだから。君だけにしか語らない真実の話さ。頭を抱えるのは勝手だけど、聞きたくないからって耳を塞ぐのはやめてくれ。君にはこれから様々な真実を受け入れてもらわなければならないからね」


 語り部は哀しげな笑いを浮かべている。


「僕も真実は時として大嫌いさ。自分で書いていて嫌になる。けど僕はそれ以上に素晴らしい真実も紡いでいる。今話しているのは幸せな真実ではないからこそ、だ。僕の後悔の物語でもあるけれど。だからいいかい、まずは赤ずきんのお話をしっかりと聞くんだ。では、続きを話そうーー」


 語り部は再び口を開いた。聞きたくないその先を語るために。

赤ずきん編2話目です。未だ白ずきんちゃんですが、そろそろ赤ずきんに……?


ということで、評価やブクマ、是非ともよろしくです!飛び跳ねて喜びます!

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