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卑怯な温もり  作者: 久遠寺蒼
リエとの出会い
2/25

1:埼玉県吉川市のジョナサンで想いにふける

 午前三時のジョナサンに人はなく、客のいないテーブルを、一人のウェイトレスが小さな台拭きでぬぐっていた。

 吉川の町は静かな眠りについており、時折、スピードを出した車が唸りながら店の横を走り去っていた。

 住宅街の広がるこの町は、夜ともなれば人通りも少なくなり、道路は昼間の渋滞が嘘のように寂れている。

 町全体が暗い。

 注文したアイスコーヒーを飲み干して、少し長めのフライドポテトに手をのばす。

 ケチャップを先に少しつけると、どろりとした赤い滴が、ポタリと皿の上に落ちて広がった。




 僕はこのジョナサンの、一番奥にある窓際の席が好きだった。

 何度この席に座ったことだろう。

 かれこれもう十回近くになるのだろうか。

 車で一時間ほどかかるこの町のジョナサンにわざわざ来るのには、もちろん理由がある。

 ジョナサンでご飯を食べるためではない、それなら僕の街にだってジョナサンはある。

 僕は彼を待っていた。

 いつも何かと相談事を持ちかけてきて、そのたびに僕は午前二時にも関わらず車をとばしてやってきては、彼の悩みにのったり愚痴を聞いたりしていた。



 彼は、いつも悩んでいた。

 勉強のこともそう、恋愛のこともそう。

 僕は彼の悩みを聞き、アドバイスではないけれど、彼が見失った進むべき方向を見出す手助けをしていた。

 こういう選択肢がある、こういう選択肢もある、回り道だけどこんな選択肢もある、さあどれを選ぶ?

 これが相談を持ちかけられた時の、僕なりのやり方だった。

 相手の行く末を断定しない。

 これが一番だ、とは言わない。

 僕には他人の生きる末を決定づけられる権限なんて持っていないし、後からダメだったじゃないかと責任を押し付けられるのも嫌だった。

 だから僕はぐちゃぐちゃになって分からなくなった道を、話を聞きながら紡ぎ出すことに徹する。

 それに、『誰かに言われたからそうする』というより、『最終的に自分でこの道を選んだんだ』と思ってもらいたいたかった。

 その方が自信に繋がるし、誰かに相談しなくてもある程度自分の道を模索できるようになると、信じている。




 今日は、しかしいつもと違う。

 自転車が前を通り過ぎるたび、僕は顔をあげて窓の向こうをひっきりなしに眺めてはため息を漏らす。

 分かっている、彼の家はこちら側ではない。

 西向きにあるその窓からは、東からやってくる彼の姿を見つけることはできないのだ。

 店の入り口のドアが開く。

 彼かと思ったが、入ってきたのはガングロのギャル二人だった。

 キーキーと甲高い声を撒き散らしながら、彼女らはウェイトレスの案内を無視して、僕の隣のテーブルに座った。

 笑い声に苛立ちを覚える。

 一人がLARK一本を取り出して、貧相なライターで火をつけた。

 煙を吹き出した時の顔と言ったら、まるでビッグサンダー・マウンテンの落下時に撮られるスナップ写真のように、情けなかった。

 あれLUCKYSTRIKE吸ってたんじゃなかったっけ、親父クサい煙草だって聞いたからやめちゃった、えー今頃気づいたのバッカじゃない、キャハハハハハ――。

 僕はイライラを抑えきれず、テーブルの端に追いやられていたLUCKYSTRIKEに手を伸ばして、十字架の刻まれたZippoで火をつけた。

 親父クサくて悪かったな、僕は好きなんだよ、どうせ親父だよ……気づかれないように、彼女らを薄く睨みつける。

 深くてざらっとした煙が喉や舌に絡みつくのを感じながら、僕は視線をテーブルへと落とした。



『ごめん、待った?』



 焦りの混じったかわいい声が聞こえそうになって、首を左右に振る。

 それは妄想、雑念。

 決してそんなことが起こるはずはない。

 肺に溜まった煙を吐き出すと、後には胸の奥が生々しく握られているような気分が残った。

 虚しさと切なさとやるせなさが、僕の芯を地面に落ちた無花果のようにしようとしているかのよう。

 そう、僕の心は打ちひしがれて、すっとつつくだけでへこんでしまう無花果の実と同じくらい脆くなっている。



 だから、町田から吉川のジョナサンに向かう途中の運転で、何度ハンドル操作を誤りそうになったか。

 東名高速道路を運転している時はまだ良かった。

 時速160kmくらい出していれば他の車は怖がって道を空けてくれたし、大きなハンドル操作も無かった。

 NISSANのFUGAを高速で運転していると、だいたいの車は道を譲ってくれる。

 横浜町田ICから東名高速道路に入り、横浜青葉IC・東名川崎ICを過ぎ、東京ICで首都高に乗り換えるまで、十分もかからなかっただろう。

 ただ、首都高を通り、東京外環自動車道を降りて狭い道に出た瞬間、僕の中の何かが崩れた。

 狭くて、暗い。

 外環三郷西ICを降りてからジョナサンまでの道は、車のライトだけが手がかりで、僕にとっては恐怖の塊そのものだった。

 横を擦らないように気をつけなくちゃいけない緊張感が起こるのはもちろん、それ以上に何かが後ろから追いかけているような錯覚が迫ってきたのだ。

 いつもは感じない焦りが、冷や汗となって、ハンドルを動かす僕の手を滑らせる。

 まるで初めていろは坂に挑戦した若葉マークの青年のような気分。

 泣けるものなら、泣いてしまいたかった。

 ほんの2時間前とは全然違う。

 あの時は無口ながらもそれなりに快適だった。

 それなのに。



 望んだわけじゃない。

 初めからこうなると思っていたわけじゃない。

 誰にでもなく、僕は言い訳じみた言葉を、つらつらと紡いでいた。

 好きでこんな結末にしたかったわけじゃない、と。



 携帯電話のバイブが、先ほどから何回も鳴っている。

 でも僕はその電話に出ることはできない。

 できるはずもない。

 ズボンのポケットから携帯電話を取り出し、ソファー椅子の一番端へと投げ捨てる。

 携帯のサブディスプレイが、バイブと一緒にチカチカと青く点灯している。

 電話だからとってくれと、いつまで待たせるんだと、言いたそうに。



 やがて携帯が静かになって、相変わらずギャル達の会話はうるさかったが、先ほどと同じ呆けた静寂が戻ってきた。

 なんでこんなところにいるんだろう。

 どうして今、彼を待っているんだろう。

 僕は帰る途中、衝動的に車をファミリーマートの駐車場に止めて、衝動的に彼の番号にかけた。

 ――もしもし、これからジョナサンに来れない?

 ――なんかあったのか?

 ――いろいろあったんだよ。

 それだけの会話で、彼は快く了承してくれて、一時間後くらいにジョナサンまで来てくれとお願いしたのだ。

 高速道路は思ったよりも空いており、僕は予定より二十分早く着いてしまった。



『明日、吹奏楽の練習があるの。一週間後に発表会があるから』



 三時間ほど前、彼女は嬉しそうに僕に語ってくれた。

 普段は着ない黒いウール生地でV字に首元があいたカットソー、シンプルな黒のミリタリーコート、黒のパンプスを纏った彼女は、いつもより嬉しそうに、小さな公園の中を歩き回っていた。

 よく承諾してくれたな、と今さらながら思う。

 今日、僕が起きたのは午後八時。

 『今から行くけど平気?』と彼女に電話して、町田に着いたのが午後十一時。

 そして別れたのが日も変わった午前二時。





 最後に見た彼女の顔が、頭から離れない。

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