15:二人はこんなにも近くて、こんなにも遠い
『ねえ』
彼女の小さな唇が動く。
『少しだけ、今だけ、軽く抱きしめて』
僕は言葉を発することもなく、頷くこともなく、彼女に向けて一歩踏み出し、彼女の背中に腕をまわした。
ユリの体は温かく、そして小さく震えていた。
彼女は僕の鎖骨あたりに額を押し付けると、そっと、僕の胸元に手を置いた。
小さい手だった。
何かにすがるように拳を握って、僕の服を掴んでいた。
『ワッカくんの、卑怯者』
彼女は小さく笑いながら、言った。
僕はその言葉を返すことができなかった。
ただ、その儚げな背中を、優しくさするだけだった。
『今だけは、このままでいてもいいよね?』
僕はかすれた声で一言、ああと言った。
彼女の、服を握る手が強くなり、額をより強く僕の胸に押しつけてきた。
また泣き出すのかと思ったけれど、彼女の肩が震えることはなく、規則正しい静かな吐息を胸に感じた。
静かな夜だった。
本当に、静か。
二人だけの世界が、何も言わずにただそこにあった。
僕は今、きっと幸せを感じているのだと思う。
少し経てば消えてしまう、それこそ夢のように終わってしまう、儚い一時を、もうやってはこないだろう甘酸っぱい人生の一瞬を、感じずにはいられないのだ。
彼女が額を離せば終わる。
この時だけが特別、きっとその後は今までの二人に戻る。
そう、きっと、戻る。
すっとユリが額を離すと同時に、僕も彼女の背中にまわした腕を解いた。
彼女の手は僕の胸に置いたまま、ユリは僕の顔を覗き込んだ。
『本当は、私もワッカくんのことが好きなの』
ユリはそう言って、顔に笑みを湛えた。
思わずもう一度抱きしめたくなるくらい、今までで一番かわいらしい笑みだった。
『でも、付き合うことはできないよ。今の彼を裏切ること、できないし。それにきっと今の二人はそれを望んでいないと思うし。
ワッカくんの気持ちがすごく嬉しい。好きだって言ってくれて、嬉しかった。何も言わずに抱きしめてくれて、嬉しかった。これは事実。
嫌いになったわけじゃなくて、一緒にいたくないわけじゃなくて、それでも』
そこで彼女はふっと言葉を閉ざした。
どうして二人はこんなにも近くて、こんなにも遠い場所にいなくてはいけないんだろう。
二人は織姫と彦星のよう。
でも彼らと違うのは、言葉を交わすことができるし、触れようと思えば触れることができるし、会おうと思えば会えるし、心を通わせようと思えばいつだってできるところ。
いつだってできる、しかしできない。
なんてもどかしい。
僕達はきっと、出会うタイミングが悪かったんだろうね。
きっとユリも感じているのだと思う。
僕らのこの、すれ違いとも言える境遇に対する悲観を。
だから僕は言う。
『じゃあ、一番の友達になってください』
彼女ははっきりと、力強く頷いた。
空では幾億もの星達が、それぞれの光を放って、輝いていた――