アウデンリート城
エルニア公国の公都アウデンリートその中心に聳え立つ大公家の居城、その北西の一角が大公妃の後宮に割り当てられている。
そこにクライルズ王国の使節団の帰国を送る軍楽隊の軍鼓の音がかすかにここまで届いている。
後宮の女主人であるテオドーラ大公妃はぶつけようが無い憤懣に身を焦がしていた。
「テオドーラ様、クライルズ王国の使節団が帰国の途につきました」
「わかっておる」
テオドーラは女官長の報告に不機嫌に応じた。
それは突然のクライルズ王国からのエルニアのルーベルト公子と、クライルズ王国の第一王女のマルチナ=アンドルリークとの婚姻の申込みであった。
テオドーラはこれがクライルズの突然の思いつきなどと考えるには聡明すぎる女性だ、エルニアとの事前の交渉と調整の結果として使節団が送り込まれてきたと確信している、宰相のギスランが主導しクライルズ王国から申し込ませる様に動かしたのだろう。
宰相のギスランがクライルズ王国との婚姻を考えている事は察していたが、エルニアから申し込む場合はルーベルト公子の生母であり正妃であるテオドーラの意向を無視できない。
だがクライルズ王国からの申込みそのものに干渉する事はできない。
そしてクライルズ王国の婚姻の申込みは大々的に公表され今や公国中に広がってしまった、もはやもみ消しようが無いのだ。
こうなると婚姻を拒否するにしても正統な理由が求められる。
ギスランは謀略家だが無法者ではなく絶えず正統性や手続きを重んじる男だった、そしてそれを武器にして物事を動かそうとする、先代大公ギデオンが見出し懐刀とした男だった。
テオドーラはアラティア王家の遠縁の公爵家から王室の養女になったカミラ=ダールグリュン姫とルーベルト大子の婚姻を願い、それなりに準備を進めてはきたが、ルーベルトとカミラと手紙のやり取りをさせる、有力者との根回しに留まり、正式な婚姻の申し込みには慎重な姿勢を示していた。
エルニア諸侯の中に二代続けてアラティアと婚姻関係を結ぶ事に抵抗感が強く、そしてアラティアは何度も争った関係でテオドーラやアラティアの影響力が強くなりすぎる事を警戒する者も少なからずいる。
そんな理由から彼女の派閥が慎重に事を進めていた矢先の出来事だった。
現時点では国内でクライルズ王国との婚姻を歓迎する空気の方が支配的なのだ。
エルニア駐在大使のローマン=アプト男爵はクライルズの使節団の到着に慌ててアラティアに帰国したが、そうそう素早く事後策を策定できるわけもない。
テオドーラは深くため息をついた。
そこに来てルディガーの謀反事件だ、これは大公黙認のギスランの謀略だろうと彼女はそう読んでいたが、その謀反事件が落ち着いた直後のクライルズ王国からの使節団の当着だった、クライルズ王国との婚姻工作と並行して以前からルディガー派の追い落としの準備が進められていたと考えるべきだろう、彼女はその結論に到達していた。
完全に意表を付かれる事になったのだ、テオドーラはこの二週間の間この謀反事件に完全に気を取られていたのだから。
大公妃はこの状況からどう挽回を図るか頭を総動員しはじめていた。
彼女の到達した最善の手はアラティア側から一刻も早くカミラ=ダールグリュン姫とルーベルト公子との婚姻を申し込んで来る事だ。
大使のローマン=アプト男爵ならばそこまで考慮しているだろう。
だがテオドーラは兄のアラティア王に手紙を出す事にした、改めてアラティア側から一刻も早くカミラ=ダールグリュン姫とルーベルト公子との婚姻を申し込むように催促するのだ。
彼女は後宮庁の自分の執務室に向かった、大公妃は後宮庁の長を兼ねるのがエルニアの慣例だった。
テオドーラはエルニアに嫁いだばかりの頃この慣例に驚愕したものだ。
エルニアは例にもれず男尊女卑の社会だが、エルニアの豪族階級の慣例はかなり特殊だった、男は政と武芸に専念すべきで家の中の事に関わるのは男のする事では無いとされていた、領主は領地と家臣の管理と統制と他の豪族との交渉や公務に専念する。
正室婦人は領主のプライベートを総て管理するのが勤めとされていた、使用人や庭師や料理人に至るまでその人事や報酬の管理、側室ができたら彼女達の管理や面倒まで見る義務があった。
百万アルビィンの歳入のある領地と多くの家臣団を従える領主が、自分の1アルビィンの下着すら自由にならないのだ。
エルニア大公家もエルニアの慣例に配慮してこのような後宮庁を設けて大公妃がそれに就く様にしてきた。
後宮に関しては他国以上に大きな支配力を与えられているが、半面大公妃がエルニア公国の政治に口を出すのは非常に忌み嫌われる。
それ故にエルニア豪族達が彼女を見る目はなかなか厳しい。
テオドーラは手紙をしたためると腹心の侍女を呼び出そうとして思いとどまる、彼女は添え状をしたためた上で彼女を呼び出した。
書状を束ねたものを皮のケースに修めると皮の帯で縛り、後宮庁の紋章が書かれた封印紙を貼った。
「これをアラティア大使館の副大使殿に届けて、添え状はローマン男爵に宛てたものです、火急の物だと念をおしなさい」
「かしこまりました大公妃様」
侍女は書状を受け取り一礼すると足早に後宮庁の執務室から去っていく。
彼女は椅子から立ち上がると窓の外を眺める。
そこに女官長が慌てて執務室に飛び込んできた。
「謀反人ルディガー公子の死亡が公表されました」
「なんですって!?」
大公妃もルディガーは死亡したとして公表されるだろうと予想していた、だがクライルズ王国からの使節団が去った直後に公表するとは思ってもいなかった。
エルニア公国宰相ギスランは大公の執務室で総務庁長官のヴェンデル=ヘルトの報告を受けていた。
人払いも済ませ執務室に居るのはこの二人だけだ。
「謀反人ルディガー公子の死亡を確認したと公国内に公布いたしました」
「わかった、して今だにルディガー公子の行方はわからんのか?」
「既にテレーゼやグティムカルに特命の密偵を送り込んで居ますが今だに報告はなく」
「ルディガーは状況から察するにかなり組織的に守られておると儂は判断している、念の為にアラティアやクライルズにも派遣するのが良いだろう」
ギスランを始めとしたエルニア政府はルディガーのアウデンリートからの脱出やグリンプフィエルの猟犬を撃破した状況から、彼が組織的に守られていると判断していた。
まさか三人だけで行動しているとは夢にも思わない。
「アラティアですか?それはルディガー殿には危険でありましょう」
「そうだがそれゆえに盲点になり得る」
「なるほど、そういたしますか・・・」
「しかしクエスタやエステーベ一族はどこに消えた?」
「国内で隠れていそうな場所は洗いました、後はクエスタに縁のある者が周辺各国に居ますので、匿われている可能性があります、既に各国に問い合わせをいたしております」
「ならば時間の問題であろうな・・・」
この時宰相執務室に宰相府の役人が入ってきた。
「後宮からの伝達であります、テオドーラ大公妃様が宰相閣下をお呼びです」
大公妃と言えど宰相を呼びつける権限は無いが軽んじる事もできない。
ギスランは大方ルディガー公子の死亡公布に関する質問と、クライルズ王国との婚姻の件で嫌味を言うのであろうと僅かに顔を顰めた。
その時また執務室に別の役人が入ってきた。
「お前か、どうした?」
その男はギスランに近寄り耳打ちする。
「わかった、アラティア大使館だな」
大公妃の動きは当然の様に監視されている。