交戦
グリンプフィエルの猟犬は僅かな戦いから、相手が見かけより遥かに手強い事を悟った。
そして意を決し動く、低く身構え体を回転させ尾を鞭のように横に薙いだ、だがベルもルディもそれを余裕で躱す、猟犬はその間に真後ろに飛び退り獲物との距離を保った。
しばらく二人の獲物を睨みつけていたが猟犬は遂に侮りを捨て去る事にした。
次の瞬間ルディに向かって突進、獲物の眼の前で飛び上がり前転宙返りをしかけた、ルディが『いったい何をするのか?』と訝かしんだ瞬間に風切り音と共に真上から二本の鞭が襲いかかってきのだ。
敵の凶悪な顎と背中の剣列に気を取られ剣のリーチの遥か外側から頭上へ奇襲を食らったのだ。
だがこの時ベルが動き始めていた、彼女は猟犬の肩に開いた傷を狙っていた、そのベルの動きに機敏に反応した猟犬は僅かに体を動かしたが、その為に猟犬の回転軸が僅かに振れた。
鞭の一本はルディを完全に外れ地を叩いた、だが反射的に鞭の一本を剣で受け止めてしまう、鞭は剣では切れずに折れ曲がり彼の背中を打ち据えた。
「がっ!!」
ルディの顔は苦痛で歪んだ、だが歯を食いしばりそれに耐えて姿勢を崩さない。
その瞬間ベルは猟犬の肩の傷にエルニア軍の長剣を突き刺していた、剣の刃渡の四分の一が猟犬の肩に沈み込んだ、だが剣は強固な抵抗にぶつかり、ベルは本能的に剣を捨て即座に後ろに飛びすさる。
そこを猟犬の巨大な鮫の様な顎が噛み砕く、だがベルは間一髪でそれを回避していた。
猟犬は苦痛と怒りの咆哮を上げた、それには何かの言語的な意味があるかのような不気味な雄叫びだった。
「堅いものに当たって剣が入らない!!」
「こいつは魔法的な金属の皮膚で覆われている、骨もその類だろう」
ルディはこの猟犬の戦闘能力ならば時間が許す限り人間を殺戮できるだろうと読んだ、暗殺者としては過剰、相手が軍隊でも200程度ならば壊滅的な損害を与える実力があると確信した。
ベルが突き刺した剣の回りから白い煙が出ている。
「剣が溶けている!?」
猟犬は剣を突き刺したベルに向かって跳躍し前倒回転で鞭を叩き込んだ、ベルはその鞭を新体操の選手の様な身のこなしで華麗に躱す。
だが猟犬は突如方向転換、ルディに向かって突進してきた、そして空中前転するかと思いきや、そのまま口を開け正面からぶかった。
ルディはまともに受け止めるつもりはなく、だが回避だけでは躱せないと見切り、猟犬の頬に長剣を叩き込み反動を利用しながら右側に回転しながら回避した。
猟犬の前足の爪がルディの脇腹を掠めて血飛沫が上がり、猟犬の頬の傷から黒い血が流れガスが吹き出した。
そこに間髪入れず猟犬が横回転しながら鞭が水平に薙ぎ払われた、ルディはそのまま地面を転がりながら回避するしか無かった。
更に猟犬は追撃をかけようとしたが、そこを猟犬の目を狙って投げたベルの短剣が奔る、猟犬は僅かに体を逸し短剣は頬を叩き金属的な音を響かせ弾かれた。
この僅かな隙にルディはなんとか体制を立て直した。
「こいつの尾が邪魔だな・・だが切るのは無理か」
先程剣で受け止めた尾にはほとんど傷が見えない、非常に強靭で柔軟な材質でできているようだ。
「いや、でもないぞ、ベル、このまま奴の注意を少し引いてくれ」
再び猟犬の標的になり逃げ回っていたベルが横回転しながら応じた。
「ま・か・せ・て」
猟犬がベルに向かって鞭を横薙ぎにした直後、ルディが凄まじい速度で魔剣を猟犬の尾の根本に叩き込んだ、だが猟犬の動体視力と運動神経はそれを上回る、剣は尻尾の片方の根本を半分ほど切り裂いただけだった。
そしてそのまま体の側面で体当たりを食らわしてきた。
「がっ!!」
ルディは3メートル近く吹き飛ばされた。
「ルディ大丈夫か?」
猟犬の背中の剣がかすったのか流血を起こしている。
「くそ、少し火傷を負った」
その時ベルが先程突き刺した剣が折れて転がり落ちる、剣が腐食したのだろう、猟犬の傷の回りは黒く変色している。
「こいつやっぱり熱いのか」
ベルが呆れた様に呟いた。
ルディは猟犬の肩の傷を睨み据えていた。
「ベルこの近くに川か泉はあるか?」
「あるけど?」
「そこに誘導したい」
「あっ!!わかった北東300m程のところに池があるはずだ」
二人はグリンプフィエルの猟犬と交戦しながら池の方向に移動しはじめた、猟犬も獲物達がどこかに誘導しようとしているのは理解していたが、猟犬にはそれを拒絶できなかった、永遠にこちらの世界に居られるわけではない、猟犬もまた時間と共に少しずつ力を失って行くのだ、その力が尽きる前に命令を遂行しなければならなかった。
猟犬は突進と尾を使ったフェイントを組み合わせ獲物を翻弄してしていく、そして遂に切れかかっていた尾の一本が根本から千切れ飛んだ、猟犬は再び怒りの咆哮を上げる。
あたりは既に陽が落ちて急速に暗くなりつつあった。
「もうそこが池だ!!」
「わかった」
そこは昨晩戦った泉の回りの花園のような場所ではなかった、池の回りだけ僅かに開けていたが、湿地が点在していて足元が確かで無い、ベルが気に食わなさそうに僅かに眉を顰めた。
「池に落とす?」
「できればそうしたいがな、少しでも奴を冷やしてやる、時間切れでもかまわん、勝利に貴賤無しだ!!」
ルディは息を切らし始めていたがまだ余裕がある事がわかってベルは微笑んだ。
「ルディ、お前の外套を!!」
「何をする気だ?」
と言いつつも血まみれの外套をベルに向かって投げてやる、彼女はそれを受取りルディの左手側に走り始めた。
猟犬は池を警戒している様子だが、ルディから池までまだ20メートル程の距離がある。
そのルディの視界の遥か端でベルが池の縁に寄ろうとしていた、知能が高い猟犬はベルの意図を見抜たかのように、これを見逃さずベルに向かって突進する。
「ベル!!」
だがベルはルディも猟犬も予想していなかった行動に出た、そのまま池に飛び込んでしまったのだ。
獲物が急にいなくなり、池に飛び込む訳にもいかない猟犬は大いに気勢を削がれ急減速した、そこに斜め後方から斬撃を叩き込む者がいる。
俊敏な猟犬は背中の剣で巧みにいなした、一本の剣の根本にヒビが入っただけだった。
猟犬は再び飛び退り距離を保った。
グリンプフィエルの猟犬は激怒し咆哮を上げた。
猟犬はこれほどまで手こずった経験が無かった、致命的なダメージは受けてはいないが、これまでの戦いで弱者を蹂躙してきた強者の誇りは大いに傷つけられていた。
獲物共に翻弄され今また愚弄されたのだ、その炎の両眼が赤から灼熱の赤黄色に光輝き始めた。
猟犬は突進した、だが今度はルディは正面から受け止めた、剣を鮫の頭の様な猟犬の鼻柱に叩き込む、そのまま1メートル近く押されて停止した、この世界の犬や狼と違いグリンプフィエルの猟犬の頭と顎は長く巨大だった、それが仇となり猟犬の前足はルディに届かない。
猟犬は3メールを越える巨躯と力で押し切ろうとする、それをルディの常人では有りえない剛力と魔剣が受け止めている。
「やはり、初めより少し力が落ちているようだな」
だが力が多少落ちようと常人にこんな真似など不可能だ。
猟犬は僅かに不審を抱いた、なぜこの獲物が真っ向から受け止める気になったのだろうかと。
両者は力が均衡している様に見えたが、ルディの足元を見るとブーツの引きずる痕から徐々に押されている事がわかる、その顔には疲労と苦痛の色が浮かんでいた、だがそこには絶望の色は無かった、猟犬はそれを僅かに訝しんだ、その時獲物が不敵に笑うのを見た、それは勝利の笑みだった。
その瞬間グリンプフィエルの猟犬に水が浴びせかけられた。
熱せられた鉄板に水がぶちまけられた様に、猟犬の皮膚は冷えオレンジ色から赤黒く変色し、凄まじい音と水湯気が立ち昇った。
外套を袋の様にして水を携えたベルが、何時の間にか猟犬の後ろから音もなく気配を殺して忍び寄っていたのだ。グリンプフィエルの猟犬は怒りからベルを失念していた。
更に彼女は外套を猟犬の頭にかぶせ目潰しを食らわせる、外套の水分が熱せられ再び蒸気が立ち昇った。
ルディはその機を逃さず雄叫びを上げ魔剣を凄まじい速度と破壊力で叩き込んだ、炎の精霊力を失った魔法金属がひしゃげ破片が飛び散る、さらに魔剣を叩き込む、背中の装甲板に亀裂が走り背中の剣が三本ほど吹き飛んだ、そして二人は何かこの世ならざる力が異界の敵から抜け出していくのを感じたのだ。
(何だこの感覚は?)
だが視界を失った猟犬がでたらめに暴れ初め追撃する事ができない、数発不完全な斬撃を食らわせたが猟犬の皮膚が徐々に元の色を取り戻し初めていた。
「まずいな」
やがて乾ききった外套が黒い煙を吹き出し燃え始めた。
そこにベルが突進し短剣が猟犬の目に突き刺ささる、ガラスが割れる様な音とともに炎が吹き出し、ベルはそれをバク転しながら回避し離脱した。
猟犬は咆哮を上げたがそれはもはや苦悶の叫びだった。
猟犬はベルを無視しルディに向かっていった、再び魔剣を鼻面に叩き込み受け止め耐える、敵は明らかに速度も力も落ちている。
「弱ってきたぞ!!」