死闘
ベルもまた老紳士を前にして戦いに僅かながら不安を感じていた。
アマンダがついに道を開いたと聞かされた頃、ベルは魔術とか精霊といった物をあまり信じていなかった、道端の占いや呪いや予言の類と同じに見ていた。
だが神隠しから帰って一年後の模擬戦でアマンダから始めて精霊力を感じた、ベルは追放の身で城に詰めるアマンダとはまったく会えなくなっていた、久しぶりに再会した模擬戦でアマンダが始めて精霊力を披露してくれた。
その時始めて以前とは比較にならない程デタラメなまでに重く早い攻撃をアマンダから受けた、ならばアマンダはそれまでの模擬戦では精霊力を封じていた事になる。
精霊力を使う聖霊拳の上達者との戦はこれが二度目でそれも始めての実戦になるのだから。
老紳士から殺意が滾りはじめていた、それが湧き出る精霊力として伝わってくるのだ、そしてベルもまた覚悟を決めた。
その瞬間、老紳士がベルの目の前に現れた、聖霊拳の相手との間合いを詰める技の一つだが精霊力により神速の速さにまで加速されていた。
鋼の鎧を貫く破壊力を秘めた拳がベルの顔面に叩き込まれた瞬間ベルの細腕がそれを受け止めていた。
ベルはそのまま後方に回転するように吹き飛ばされていく、そこを俊足で追撃し真下から右足で蹴り上げる、だがそれはベルの両足のロングブーツの底がすかさず防御し受け止め、その瞬間ベルは図ったように剣を横なぎに一閃させる。
もしそれを回避しなければ老紳士の首は確実に飛ぶだろう、それを見切り姿勢を後方に崩すことで回避を図る、ベルを蹴り上げた反動を利用して神速の加速を上体に加え髪一筋で躱す。
ベルはそのまま中途半端に蹴り上げられて中を舞い、老紳士も姿勢を大きく崩しそこから立て直しを急いだ。
ベルは空中で姿勢を制御して屋根の縁に綺麗に降り立った、そして二人は再び距離を取り対峙した。
それは人外の戦いだ、まともに喰らえば即死する攻撃の応酬だった、それは人間離れした力と動体視力と反射神経を持つ超人同士の戦いだった。
ベルはふと周囲に放出された精霊力の濃度が異様に高まっている事に気が付いた。
「これは凄い」
今度はベルが攻撃に出た、それは流麗な美しい剣技から、変則的に変化する断続的な連撃へと変化しながら加速していく。
精霊力が通常の剣技ではあり得ない剣の慣性を無視した変化を与える、それは定石通りに、時に微妙にずれ、常識的にあり得ない動きへと変幻する連撃が老紳士に襲いかかった、それがベルの足の動きとあいまって回避不能な死の領域を作り出した。
だがそれを老紳士は限界の間合で回避していくのだ。
敵の剣を受け流しカウンターにつなげる聖霊拳の攻撃の出足を総て潰す為の攻撃だった。
老紳士の顔に怒りと僅かながらの焦りが広がる、回避するのが限界で攻勢に転れない、ベルはそれを見てとり不敵な笑いを浮かべた。
だが彼もまたある変化を感じ取っていた、それは目の前の少女の精霊力が僅かながら弱くなっている事に。
ベルの凄まじい乱撃が終わり再び後ろに下がり距離を保つ、総ての攻撃を凌いだ老紳士の制服はあちこち切り裂かれていたが、一滴の血も見えなかったすべて限界ギリギリで回避してのけたのだ。
「おじさん凄いね」
ベルは挑発的に笑ったが極わずかに息を切らしている様に見えた、精霊力を生かした彼女の乱撃を受けて生き残れる人間はまずいないであろう、アマンダならば凌げるであろうし、ルディもいずれは耐えられる様になる。
だが目の前の老紳士は初見で耐えて見せた。
再び老紳士が攻勢に出た、だがどうしても慎重にならざるを得ない、相手に攻撃させてカウンターを食らわす前に、先制の変則的な剣戟で手傷を追わされる危険があった。
だが最初の攻撃を躱した瞬間、ベルの武器を持つ右手そのものに攻勢を転じていた、目の前の怪物に一撃で致命傷を与えて沈めるのは不可能と見きったのだ。
武器を破壊するか腕そのものにダメージを与える、だが老紳士の卓越した動体視力は少女の左手の不審な動きを察していた。
左手には少女が隠し持っていたダガーが握られていた、右腕に攻撃を転じようとした紳士の首筋を狙っている。
無理な姿勢から体を半分捻り足で少女の左腕を下から突き上げ剣筋をずらした、ダガーは老紳士の耳たぶの上を浅く切り裂き血が吹き出した。
そして足で少女の腹を蹴りとばした、だが少女の体は重く老紳士の体が後方に一気に跳ね跳び二人は再び離れた。
「げふっ!!」
美少女には似つかわしく無い何かが潰れた様な声を上げる、少し眉毛が八の字になっていた。
「ううっ、ご飯を食べる前で良かった」
並の人間ならば即死級の蹴りを食らってのセリフだった。
老紳士は一連の戦いから少女が聖霊拳との戦いを熟知しすぎていると更に確信を深めていた、聖霊拳の上達者が聖霊拳を捨てて剣士になっているのでは?そんな新たな疑念が彼の中で広がり始めていたのだ。
だが幽界への通路を開いた域に到達した者で聖霊拳を捨てた事例は歴史上極わずかだ、すべて不幸な結末を迎えている。
そして少女は先程のダガーを袖の中に隠し持っていたと読んでいた、だが暗器がこれだけではない可能性も高い。
もし少女が暗殺者ならば極めて危険で優秀な人材だろう、彼女を雇うとするならばどのくらい金が積まれるだろうかと場違いな考えが彼の頭の中をよぎる。
そしてあの凶悪な変則攻撃は強力だがそれだけ力を浪費するに違いないと思った、わずかに息を切らし呼吸を整えている少女に目をやると老紳士はついに決意した。
彼は少女の精霊力が先程よりまた弱くなっているのを感じていた。
老紳士が再び攻勢に出た、敵の間合に踏み込み少女の変則攻撃を必死に躱す、まともな剣筋でない為経験や定石が通用しない、すべてが瞬間の判断だった。
ギリギリで躱しながらも、大きく後退する事はなく間合に再び踏み込み攻撃を躱し攻撃を加える、だが老紳士も少女に有効な攻撃を加える事がなかなかできない、そしてこの無理な戦いで老紳士の負傷が徐々に増えていった。
少女も打撃を受けていたが顔面に打撃を受けて最高に不機嫌な顔になっていた、だが戦闘不能からは程遠かった。
そして二人は再び間合を取った。
老紳士は負傷が蓄積し執事の制服は切り刻まれ血が滲みていたが、すべてかすり傷で致命傷はまったくない、そして老紳士にも流石に疲労の影が広がり始めていた。
そして少女は肩で激しく息をしてそれを整えようとしている、そして精霊力が先程より更に弱まっていた。
老紳士はこの興味深い少女を捕虜にして魔術研究所に連れ帰る事を考え始めていた。
少女は呼吸を整え真っ直ぐに立つ、だがその目を周囲に抜け目なく走らせている。
老紳士は敵が撤収を考えていると読んだ、密偵や暗殺者ならば勝負の決着に意味など無く目的を達成する事こそが重要なのだから。
老紳士は精霊拳のもう一つの顔、地味故に世間からは注目されない組技に移行して剣を封じる事を考えていた、組技に移行してそのまま捕縛する、どんな怪物であろうとも関節を外してしまえば動きを封じられるはずだそう考える。
そして相手が聖霊拳を捨てた者なのかもその時わかるだろう、剣を失った時にそれが明らかになるだろうと。
老紳士は少女を逃すまいと一気に踏み込む、そこに少女の変則攻撃が再び襲いかかる、だが変則攻撃にも幾つかパターンがある事を既に見切っていた、その攻撃の剣威も先程より明らかに低下している。
その応酬が数回繰り返された直後、少女の剣を持った手首を老紳士の左手が掴んだのだ、すかさず再びダガーを持った少女の左手が突き出された、ダガーは一本では無かったのだ、それは右手で弾かれ左足が下から蹴り上げダガーを再び宙に跳ね飛ばす。
老紳士が少女の腕を捻りあげ地面にうつ伏せに突き倒し少女の左腕もつかみ封じ込め、そして膝で少女の背中を押さえつけた。
「うっ!!」
少女は暴れて手を振りほどこうと激しくもがく。
老紳士はやりたくはなかったが、相手があまりにも危険すぎるため関節を外そうと考えていた。
だが少女が突然動かなくなり大人しくなる、そして首を捻り老紳士を見上げた。
その顔には敗北の屈辱や恐怖も無くただ無感動があるだけだった、その表情に魂が灯った、それはいたずら小僧がいたずらが成功して皆が慌てるのを楽しむような、そんな可愛いらしくもどこか小悪魔的な邪悪な笑いを浮かべていた。
「捕まえた」
少女の瞳の底に黄金の光が輝いたその瞬間巨大な精霊力の洪水が少女の中に溢れる。
老紳士の視界が突如反転するその直後に背中に衝撃が走り痛みが遅れてやってきた、一瞬で二人の立場が入れ替わっていた、その少女からは強大な精霊力の波動が伝わってくる。
老紳士は謀られていた事に気が付くが既に手遅れだった。
「このロープで縛っても間違いなく切られる、どうしようか?」
少女は革ベルトにぐるぐると巻きつけていたロープを見て悩んでいた。
その時ベルの正面の屋根の北側で精霊力に似た力が集中しはじめたのを感知する、それは刺す様な精霊力の奔流に変わり迫りくる脅威を直感的に感じた。
それは最近始めて経験した魔術師との戦いで知った精霊力の集中からの指向性の流れだった。
ベルはすかさず左側に横転して躱した、その直後に漆黒の黒い塊のような物体がベルのいた場所を屋根から50センチ程上を通過した。
ベルは新たな敵と対峙すべく立ち上がるが、さらに右手に新しい精霊力の集中を感じた、そして刺すような精霊力を感じた時、自分が狙われていると確信していた。
そして老紳士も立ち上がろうとしていた、まだ闘える聖霊拳の上達者に二人の魔術師が加わったのだ。
ベルは撤退を決めた。
南側の屋根の上に大きく跳躍し新たな攻撃を避ける、更に南に走り抜けて屋根から跳び降り、そのまま夕闇の裏路地を西に向かって疾走る。