不浄の河
テレーゼの南部の小都市ルビンとテレーゼの南の玄関口と呼ばれる大都市リエージュを結ぶ街道を聖霊教会の巡察使が西に進んで行く、巡察使の人数はルビンの領主が付けたくれた護衛が加わり総勢三十名を越えていた、その彼らの後ろから商隊や旅人達が追従してくる。
ルビンの聖霊教会の視察を最後に二ヶ月以上にも及ぶテレーゼ巡察使の任務は終わった、あとはリエージュを経由して後はアルムト帝国に帰還するだけだ。
普段は静かな聖霊教会の巡察使の団員の空気もどこか軽く故郷に帰る期待に浮足立つ様な空気が漂っていた。
彼らがほっとするのも当然で、戦乱で荒廃したテレーゼを巡回するのは聖霊教会の巡察使であっても大きな危険があった、正面から聖霊教会に喧嘩を売る者はまずいない、だが教会の権威が及ばぬ無法者がいないとは限らないからだ。
若くして聖女になってしまったアウラに課せられる試練もまた重かった。
その隊列の中央でひときわ目立つ銀髪の美しい女性の聖職者が歩んでいる、彼女こそ巡察使の顔である聖女アウラだ、だが先程から彼女は何か思いに耽るように心ここにあらずな風情だった。
「アウラ様いかがなされましたか?」
アウラの隣の小柄で真っ白な髪と髭の老人がアウラの様子に気が付き声をかけてきた。
「大司教様、いえ先生・・様扱いは・・」
「ホホホ、慣れませんか?今や貴女は聖女です当然の事」
アウラは話題を逸したが、旅の終わりに来てラーゼで再開したアゼルの事をふと思い出し故郷のエルニアに思いを馳せていたのだ。
「アウラ様はこの厳しい任務を良くお果たしでした」
「いえ旅は家の門を潜るまで終わらないと申します」
「ホホホ、これは一本とられましたわい」
大司教もまたいつになく饒舌でその表情も明るかった。
聖霊教会はアウラの育成を急いでいると言われている、あの破天荒の規格外の武神にして裸の聖女アンネリーゼ=フォン=ユーリンの対抗馬にしたいのだと噂されているのだ。
対抗馬がいなければ聖女アンネリーゼ=フォン=ユーリンが史上初の聖霊拳のグランドマスターにして大聖女になってしまうだろう、それを避けたい勢力もあるのだ。
ふとアウラは前方から感じる気配に不審を感じた。
「大司教様おわかりですか?」
「うむ不浄の河がありますな」
アウラの前方を街道を横切るように不浄な気の流れがある、テレーゼに来てから何度か遭遇したものだ。
「ここにもまた一つ」
「この地は戦乱が多いゆえでしょう、妙に多いですな」
巡察使はやがて不浄の河に入っていく、だが殆どの者はそれに気が付く事は無い、敏感な者だけが僅かに気怠さや不快感を感じるだけだ。
「大司教様この流は北に向っていますわ」
「ほほう、余裕があれば調べて見たいところですな」
その時護衛隊の指揮官が告げた。
「聖女様あれがリエージュの街です、あと三時間程で到着いたします」
一行はリエージュで休息をとりその後にアルムトへ向かうのだ、巡察の旅が終わればそこからは馬車の旅になる、五日後にはアルムトの帝都ノイデンブルクに帰るだろう。
アウラは思いを残すようにテレーゼの空を見上げた、そしてその遥か東の空に目を転じた。
アゼルの書籍集めにルディが付き合う事になり魔術街の古書店と魔術道具屋を二人は巡っていた、その頭上でベルが屋根の上を静かに密やかに移動しながら周囲を監視している。
下で男二人が気楽な会話を楽しんでいるのを見てベルの機嫌が微妙に下り坂になって行く。
「だめだ、見つからない」
不審な動きをする人の気配が見つからないのだ、ちなみにテヘペロはすでに遠くまで逃げ出している。
アゼル達がある古書店に入って腰を落ち着けたのを感じたベルは猫のように屋根の上に寝転がった。
すでに日は傾き夜の闇が迫りつつ有る、だが焼き物の瓦は昼の日の熱を含んで温かく心地よい、ベルが屋根の上で寝返りをうったその時の事だ。
遥か遠くから鋭い力を帯びた意思の力が物質化したかのような何者かの突き刺さるような視線を感じる。
すかざす気を周囲に巡らすが何も関知できない、ベルの感知領域の外からそれは来ていた、だが慌てて動く愚は侵さなかった、屋根に寝そべったままそれが来る方向を慎重に確認する。
それは西北西の方角の魔術学院の西側にある三階立ての大きな建物の方向から来ていた。
「なんだ今のは?でもテオとか言う奴とは違う」
その刺すような力は直ぐに消えた、ベルはさり気なく屋根の反対側に移動し死角にもぐり込む。
今の鋭い精霊力を帯びた強い殺気にベルは覚えがあった、あの女魔術師から火球攻撃を受けた時に感じた刺し込むような精霊力の奔流にとても良く似ていたからだ。
「魔術を使われた?」
ベルが小さく呟いた。
その屋根の下の古書店の中では屋根の上の小さな一幕も知らずにアゼルがロムレス帝国関連の書籍の物色をしていた。
そのアゼルにルディも根気よく付き合っている。
「ロムレス時代の予言といっても数も多いのではないか?」
ルディはささやくような小さな声でアゼルに話しかけた。
「ええ400年続いた大帝国でしたから予言の類も膨大な数に昇るでしょう、ですから精霊宣託に関わる予言で絞り込みます、その中でも我々や大公妃の精霊宣託に関わるような予言は限られます」
同じ様に潜めた声でアゼルも応じた。
「俺も義母が関心を示しそうな内容だろうと考えていた、あの方ならば弟の将来やエルニアやアラティアの未来に関心をお持ちだろう、だがロムレス帝国とどんな関係があるのだ」
「わかりません、ですが国々やエスタニアの未来に関わるような予言かもしれません」
「それならば知られていたり有名な予言の中に有りそうだな」
「そうですね、ただ埋もれている予言の可能性もあります、決めつけるのは危険ですね」
「埋もれている?」
「ええ、精霊宣託には部外秘の契約の宣託があります、契約者の死後に文献などから発見される事が稀にあるのです」
ルディはそのアゼルの説明に深く感じ入った様だった。
「この本は良いかも知れません」
アゼルはある書籍を手に取った。
その本には『ロムレス帝国時代の精霊宣託史』と言うテーマの本だった。
「この本には著名な精霊宣託とそれに関する資料の説明があります、これを元にして調べる事ができますね」
資料の内容に関しては概要しか説明が無いが、これを手がかりにしようと言うわけだ、闇雲に本を買い漁るより賢明だろう。
「あんなところに変な奴がいるな?女か」
魔術学院の西側にある三階立ての大きな建物『セザール=バシュレ記念魔術研究所』の三階の窓辺から、一仕事を終えてハイネの市街地を眺めていた男が独り言をこぼした。
そえれはどこか貴族的で部下から所長と呼ばれていた男だった、黒い魔道士のローブをその長身の痩せた体に纏っている。
「バルタザール様どうかされましたか?」
それを聞きとがめたのは初老の執事だ、彼は執事の制服に身を固め痩身で体幹がしっりとしていてその身のこなしはとても老人とは思えない。
細面で短く切りそろえた白髪まじりの黒髪と鋭い猛禽類を思わせる目、手入れの行き届いた白髪まじりの口髭を蓄えていた。
「魔術街あたりの屋根の上に変な奴がいた」
初老の執事が窓辺により魔術街の方角を見たが直ぐに音を上げた。
「ずいぶんと遠いですな、良く見つけられましたな」
「俺は遠目が効く、屋根の上に芥子粒の様な人影を見つけたので術を行使した」
執事は僅かな触媒の反応臭を嗅ぎ取り得心した様な表情を浮かべた。
「して不審な点がありましたか?」
バルタザールは僅かに呆れた様だ。
「屋根の上で寝転がっている奴が不審でないわけがあるまい、若い長い黒髪の女で良家の使用人風だった」
「なるほどならば密偵ではありますまいか?」
「そんなところかもしれん、俺が術を使ったのに気が付いた様だ、警戒しこちらを見たぞ」
「それは極めて優秀ですな」
「ああ、おっと、もう見えなくなったか」
「調査いたしますか?」
「そうだな、魔術街で何か事件が起きたか調べるくらいで良い、屋根に人がいたのを見たやつもいるかもしれん」
「ヨーナスは遅いな、まだ戻らぬか?」
「まだ戻りませんな」
どこか他人事な口調で初老の執事が答える、それにバルタサールは僅かな苛立ちを感じた様だ。
「コステロ商会から戻らぬか?俺が直接行くべきだったか」
「確かにバルタザール様が関われば話は早い、だがそれでは部下を雇用しておく意味がありませんな」
バルタサールは苦笑した確かに組織のトップが一々動いていたのでは身が持たない。
「魔術街の調査ならば私が行って参りましょう、少々手強い相手かもしれませぬゆえ」