コッキー大激怒する
コッキーはベッドの上で意識を取り戻した、そして見知らぬ部屋のベッドの上で寝ているのに気がついて混乱する。
そこで記憶がよみがえる、酷く慌てた様子のピッポとテヘペロがあの煤けた部屋に急に戻ってきたのだ、香炉が炊かれあの妖しくも甘い香りに包まれた、リネインの孤児院で小さな子ども達の為に焼いたクッキーの香りを思い出しながら彼女は意識を失った。
また夢の中でおかあさんと会えた、でもどんな話をしたのか思い出せない、何かとても大切な事だった様なそんな強い心残りだけが残っていた。
「いつもいつもどんな夢を見たか思い出せないのです」
「やっと起きたのね?」
思わず起き上がり声のした方向を見た。
そこにピッポとテヘペロがテーブルの椅子に座っていた、コッキーの予想通りの二人だった。
なぜかテヘペロが修道女の恰好をしている、コッキーはそれが変に似合わないと感じた、彼女はあまりにも彼女が知っている修道女達と比べて健康すぎたからだ。
彼らはコッキーにある事情で宿を変えたと告げ、用事があるからと部屋から慌ただしく出ていってしまった。
コッキーはまた一人で部屋に取り残されていた。
「ここはどこですか?ベルさん達がコッキーを探しているのでしょうか?でも魔剣を探している様な気がしますよ」
コッキーはベッドから重い体を降ろして部屋を隅々まで調べ始める。
「やっぱり魔術がありますね、ここからでられません!窓も開けられないじゃないですか!!」
小さな拳でテーブルの上を思いっきり叩いた、テーブルが激しい音を立てて軋んだ、だがそれだけだ。
「いっ、痛いのです!?」
神隠し帰りなら痛く無いのではと密かに期待していたのだから。
拳を押さえ思わずうずくまる、そして涙が滲み出てきた、それは痛みと悔しさが混じった涙だった。
「この」
いきなり立ち上がり小さな三脚椅子をけとばした。
乾いた音を立てて椅子が転がる。
「ばかーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!」
コッキーは大きな声で絶叫した。
だがその声は外に漏れる事は無い、テヘペロの音精遮蔽の術に隙きは無かったのだから。
叫びを上げたその瞬間コッキーの目の底が明るい光を放った、そしてコッキーの背嚢の中のトランペットの金属が鈍く輝く、だがそれを知る者は彼女を含めて誰も居なかった。
新市街の裏魔術師組合の『死霊のダンス』の地下の作業場でピッポがさっそく仕事を始めていた、組合の長ベドジフは用が有って外出中だった。
約束どおりに薬や複合触媒の製造を始めたがそれだけ急ぐ理由がピッポにはあったのだ。
それはそうとピッポの目にはかなりいい加減にここは運営されていた、人の出入りからいろいろと管理が不徹底だった、しょせんは二流の研究所と見切りをつけていた。
「イヒヒ、こんな物を堂々と作れるなんて夢のような国ですな」
「フン、これが当たり前と言うだけよ」
長いテーブルの反対側で仕事の準備をしていたリズはそれを鼻であしらった。
彼女は細身でやつれた三十歳なかばに見える女性で洗いざらしの服を着流していた、その上に魔術師のローブを羽織っている、彼女の髪は手入れもされず、あちこちにくせ毛が飛び出していた、その上に化粧にも関心がないのか素顔を晒して平気な様子だ、ただ金属枠のモノクルだけが銀色の輝きを放っていた。
もしかすると彼女も髪や服を整えるともう少し美しく若く見えるかもしれない。
「テレーゼは死霊術は発展していますが全体的には遅れていますね、もっとも旧市街の研究所や魔術師組合はどうか知りませんが」
ピッポは小さな声で一人言を呟いたのだがリズがそれを聞きとがめた。
「今なんか言った?」
「いえいえ独り言ですぞ、久しぶりに仕事ができて浮かれてしまいました、ヒヒヒ」
「ああー」
ピッポはかつて一流の研究機関に属していた事があった、彼は幽界への通路が開かぬゆえに魔術師の道は閉ざされていた、だが魔術師としてのセンス自体はあると評された事があった、もっともそれでは油の入っていない高級ランプに過ぎない、これはピッポ自身の自嘲だったが。
それでも錬金術師としては一流だった、だが長いブランクがあり最新の研究の場から取り残されていた、そのピッポの目から見てもここは遅れていた。
「ところでリズさん、何のお仕事ですかな?」
「今晩仕事が入ったのよ、その準備をしているのよ、胸糞悪い仕事だけどやらなきゃね」
ピッポはリズの作業が死霊術に関する触媒を術単位に別けて整理している事を彼女の作業から正確に見抜いていた。
「危険なお仕事ですかな?」
「ふん、危険は無いわね、でも無いとは言い切れないから護衛もつくわよ」
「ならテヘペロさんの出番はありませんな」
「テヘペロってあいつの事ね?」
リズの纏う空気の温度が数度落ちたかの様にその口調が冷えた。
「私の連れの魔術師の事ですか?そうですぞ」
リズはしらばらく口を開こうとしなかった。
「ところで貴女はやはり死霊術師ですかな?」
「あら?言わなかった?死霊術師をやっているわ」
「貴女の用意されている触媒の構成が私の知っている死霊術に近いと思いましてな」
「よそ者なのにそれがわかるんだ」
リズは意外な事実を知り驚いていた、テレーゼに流れて来たばかりの術士達はたいがい死霊術に関する知識が薄かったからだ。
「それなりに死霊術を研究していましたからな、キヒヒ」
「差し支えなければ、何をされるのか教えていただけませんかな?」
「新人募集に行ってくるのよ、無給で働く気のいい連中よ」
それを聞いたピッポは事情を察したのであった。
「完全終身雇用の素敵な職場よ?骨になっても面倒を見るわ、就業時間が昼夜逆転したりするのが珠に傷かしらね、笑顔が無いのは残念だけど」
そこは同じく新市街の炭鉱街の顔役の一人ブルーノの地下酒場の彼の応接間だ、上半身が樽の様な筋肉の塊の様な男だったが、先日と同じ情婦を二人侍らせていた。
部屋全体に酒の臭いと獣脂ロウソクの臭と怪しげな薬草の臭いが充満していた、さしものマティアスもこれには辟易する、情婦の痴態を見るにつけこの薬草の煙のせいではないかと疑い始めていたところだ。
そしてそこには『死霊のダンス』の魔術師オットーも同席していた、彼は慣れているのかブルーノの情婦など気にもしていない。
ブルーノもオットーもマティアスと関係があった事に驚いていたが、マティアス自身も驚きを隠さなかった、護衛任務が死霊術と関係あるのだから死霊のダンスとの関係を真っ先に疑うべきだったのだ。
ブルーノの部下とオットーが仕事の調整をするさなか、マティアスはブルーノの情婦を見てからブルーノに視線を投げた。
マティアスの視線はこいつらに聞かせていいのか?と問いかけていた。
「ああ、気にするな最近入った新しい薬を試しているのさ、少し馬鹿になっているんだぜ、へへへ」
ブルーノは嫌らしい笑みを浮かべて意味ありげにオットーに視線を流した。
マティアスは情婦を実験台に使うブルーノの冷酷さからやはり危険な男と改めて警戒する事にした。
「新しい錬金術師が入ったので今まで作れなかった薬を作れる様になったんですよ」
オットーは軽薄そうに笑った。
どうやらピッポの造った薬がさっそく役にたったらしい、マティアスはブルーノの情婦達の姿を無感動に見下ろしていた。
マティアスはなぜか意思も知性もその目に宿さない本能のまま蠢く情婦達の姿にテレーゼそのものを感じていた。
ハイネ旧市街の魔術学院近くにあるセザール=バシュレ記念魔術研究所の一般窓口から一人の修道女がゆっくりと出てきた。
魔術研究所の職員達が好奇の目を彼女に注ぐ、修道女が指定以外の魔術道具屋を訪れる事はまずないからだ、だがどうしても必要な触媒や道具がない場合はその限りではない。
出てきた修道女は自分で肩を揉み腰を拳で叩いてから深呼吸をした。
「運良く今日入荷されたようね、まあこれで必要な物は全部そろったわね、ホントつかれたわー」
そのベールの下から聞こえる声はテヘペロその人だった、わざとらしく心にもない祝福の聖句を行き交う人に唱えながら門から出ていく。
そしてさり気なく魔法街に足を向けた、何軒かある魔術道具屋を見ておきたくなったのだ。
テヘペロが魔術街に入ると路地にはかなりの通行人が行き交っている、魔術学院の生徒と思われる制服を来た若者が街に繰り出していた。
その時突然テヘペロの足がとまり体が硬直した、テヘペロの遥か前方に見なれたそれでいて絶対に会いたくない姿が目に飛び込んで来たのだから。
それはあの三人組の魔術師の痩せた背の高い若い男と、同じく長身の場違いな剣を佩いた商人風の男だった。
だがもう一人の黒い髪の少女の姿は見えない。
「あわわわわわ!!」
彼女は奇妙な叫びを上げたが、冷静さを装いすぐ近くの魔術道具屋と隣のパン屋の間にある細い道に潜り込む、そしてハイネを南北に貫く中央通りに向って急いで歩き始めた。
「あの棒娘がいないわね、危ないわここからとにかく離れましょ」
テヘペロは彼らが何をしに来たのか知りたかったが、魔術街から離れる事を優先した。
「早く気が付いて助かったけど、ほんと変装して来て良かったわー」
ぶつぶつとあの三人組やエミルへの愚痴や罵倒の言葉を並べながら歩き去って行く。
その時ベルはルディとアゼルのかなり後方で追跡者の炙り出しをしていたのだ、そのせいで変装したテヘペロを見逃してしまった。