エルニア帝国興亡記 ～ 戦乱の大地と精霊王への路

第一章 逃亡

迫りくる者

　バーナムの森が再び昏(ク)れようとしていた、ベルにとってこの二年もの間見慣れた景色だった、それを何時も一人で見ていた。

今は隣に人がいる。

ベルは焚き火の向かい側に座る幼馴染の顔をふと見た。

きのう偶然にも再会し森の泉の花園で共に戦った、怪我の治療と休息そして屍人の襲撃を退け今日一日森の中をひたすら歩いた。

ベルは長い間止まっていた時が再び動き出した様な奇妙な興奮を感じていた。

焚き火の上で干し肉のスープが湯立ち始め、あたりに良い匂いが立ち込め始める。

改めて幼馴染の顔を眺める。

ルディは二年前と大きく変わった処はないが、少し野性味が増し少し陰りが増えた様に感じた。

かつての一点の曇もない快活さや明朗さは随分と失われているように思える、ベルはそれが好きだったがそれを鬱陶しいと感じる事もあったのだ。

（こいつもいろいろ苦労したんだろうな）

そう心の中で独り言を並べながらルディの顔を眺めていると。

「さっきからどうした？」

「うん？昔とあまり変わって無くて良かったなと」

ルディも（お前も変わらず良かった）と言おうとしたが、ベルは最後にあった時より随分と女性らしくなっていた。

今のベルを男の子と見間違える者はいないだろう。

「お前も変わらず元気で良かった」

それがルディの口から出てきた言葉だった、ベルはその言い草に微妙に胸にわだかまる何かを感じた。

「えー、こうするのも久しぶりだね」

「そうかもしれんな、だがな二人だけなのは神隠しの時だけだぞ？」

いつも自分たちの周囲にはルディガーの近臣やクエスタやエステーべの者達がいたし、たしかに二人きりになったのは神隠の時ぐらいだった。

幼かったころから誰かがかならず居て、彼らから目を離さなかった、公国の公子と有力豪族の娘なのだから当たり前ではある。

そういえば昔はルディの回りにもう少し人がいたなと思い返した。

「子供の頃はルディの回りにたくさん大人がいたよね？」

ルディが苦笑いした。

「俺が小競り合いで手柄を立てる度に人が減っていったな」

「ああ、そうなんだ、ハハハ」

ベルは乾いた笑いを上げたが、それが下手な田舎役者の演技にしか見えなかった、ルディは何か言いたそうになったが何も言わない。

「そろそろだな」

ベルは焚き火で茹でていた干し肉スープを小さな木の皿によそおいルディに手渡す、保存用の塩や薬草成分がスープに溶け出してちょうど良い味になっていた。

二人は堅いパンをスープに漬けて柔らかくしながら食べた、最後に酸味のやたらと強いアプリコットに似た果物を齧る。

食糧は狩猟小屋にあった分は総て持ち出したが、節約しても一週間は保たないだろう。

「アマンダに火急を告げるように頼んだが間に合ったか心配だ」

「こんな事になりそうだったので父さんは準備していたようだけど？」

「お前もブラス殿と連絡を取り合っていると聞いたな」

「うん公都や村には入れない事になっているけど、こっそり行けば大丈夫だよ」

「アマンダは俺について来たかったようだが、皆への連絡を優先してもらった」

「アマンダの悔しそうな顔が想像できるよね」

余計な一言をベルが付け加えた。

「・・・なんだ？」

突然ベルの表情が訝しげに変わる。

「どうしたベル？」

遠くで鳥の群れが騒いでいる、群れが一斉に飛び立つような音と騒がしい鳴き声を感じた、思わず立ち上がったベルは音のする方角に意識を傾ける。

「遠くで鳥の群れが騒いでいる」

「追手か？食事を摂った後で運が良かった」

ルディも愛剣の柄を握りしめ立ち上がった、彼は何よりもベルの野生の五感を信頼していた。

更に近くで鳥の群れが一斉に飛び立ち、上空で激しく騒ぎ始めた。

森の木々の向こう側が、僅かに明るく照らされ始めた、それは鈍い赤い光だった。

「ベル！！気をつけろ何か来るぞ」

ベルは背嚢(ハイノウ)に駆け寄り、短剣を抜き取り腰に指し、布に包まれた愛剣を取り出し紐を弛めた。

「わかった、何かいやな感じがする」

森の木々を俊敏に躱しながら、その鈍く輝く何かが凄まじい速度で接近してくる。

ルディガーは既に愛剣を抜き迎撃の準備を固めていた。

「早いぞ！！」

それは突然の突風の様に減速無しでベル達の前に飛び込んできた、ベルもルディもそれの突進を躱したが。

焚き火は踏み潰され、キャンプ用の金属製のハンガーは圧し曲げられ、ベルの背嚢(ハイノウ)が数メートル吹き飛ばされた。

それは敢えて似ていると言えるなら狼に似ていた、全長３メートル程の巨躯に六本足、全体が鈍い赤色で背中は明るいオレンジ色に輝き、背中には剣のような背びれが並び、二本の長い尻尾を靡かせていた。

鮫の様な頭に凶悪な牙が並び、その炎を宿した目からは邪悪な知性が感じられる。

グリンプフィエルの猟犬は一度狙った獲物は決して逃さない、グスタフが召喚してから僅か一時間足らずで獲物まで到達したのだ、だがベルもルディもこの猟犬の正体は知らない。

「こいつが召喚精霊なのか！？」

「そう考えるべきだな、詳しいことはわからん」

「俺が相手をする、支援を頼む」

「わかった・・」

その瞬間グリンプフィエルの猟犬が動いた、正面のルディに真っ向から襲いかかる、そのタイミングでベルが拾って隠していた石を猟犬に放った。

猟犬は躱す労すら惜しみそのまま石を受けるがほとんどダメージは無い、だがその石には看過できない程の威力があった、ベルには見かけからは想像出来ない程の力がある。

ベルを脅威と感じたのか体を捻ると長い尾を鞭の様にしならせてベルに浴びせかけた、これをベルが間一髪で躱す。

だがその隙を見逃すルディでは無かった、猟犬の左肩に重い斬撃を叩き込んだ。

予想に反して金属が軋む様な音が響きわたる。

「ぐわっ！！」

だが叫び声を上げたのは猟犬ではなくルディだった。

「どうした？」

「気をつけろ、返り血を浴びたが、こいつの血は普通ではないな」

猟犬の左肩に傷跡が生じており、黒い血の様なものが湯気を上げながら吹き出していた。

「こいつの血は煮えたぎっている、それも油か酸のような血だ、あとなこいつの手応えだが薄い鉄板を叩き割ったようだ」

「怪我は大丈夫か？」

「大した事はない、血の飛沫を僅かに浴びただけだ、傷つける事ができる相手を恐れる必要など無いのだ」