クラスタとエステーべ
話はルディガー達が泉の花園で追手を全滅、狩猟小屋で眠りについた頃まで遡る。
バーレムの森にほど近いマイア村のクラスタ家の館の居間で壮年の男がくつろいでいた、部屋の灯りはランプ1つだけで薄暗く部屋の隅は暗闇に溶け込んでいる、男は何かの物思いにふけっているようだ。
この男は、元公国騎士のブラス=デラ=クラスタでベルサーレの父親だ、齢42歳で中肉中背で鍛えられた優れた戦士、その頬には特徴的な古傷が走っている。
髪は短く切り揃えられ髪の色は灰色だが元は濃いブラウンだろう、ベルサーレと同じ薄い青い瞳が印象に残る。
その面影はベルサーレにどこか似ていた、若い頃は女に持てたと酒の席で自慢するが、整った顔立ちなのでまったくの嘘ではないだろう、ベルサーレの黒い髪は母親のアナベル譲りだが、ブラスの悪友は『若い頃のアナベルは良く笑う美しくとても可愛らしい女性だった』と悔しそうに評したものだ。
ベルサーレの顔と瞳は父譲り、細身でしなやかな体と髪は母譲なのだ。
公都の騒動もまだここまで届いていない、2年前の公子ルディガーと娘のベルサーレの神隠し事件で八つ当たり気味に責任を問われ、騎士爵と狩猟管理人の公務を剥奪され、帰農してからと言うものどうしても公国中枢の情勢を掴むのが遅れる。
その居間の窓ガラスが規則的な音を立てた、だがその規則性のある音からブラスは誰が鳴らしているのか直ぐに悟った。
「アマンダか?」
「ブラス叔父様、おじゃまします」
「どうしたんだ?」
窓が軋む音がして部屋の中に夜の外気が吹き込んで来た、すぐに闇の中から外套を羽織った女性が音もなく現れる、ブラスは彼女を一瞥し彼女の表情から何か尋常ではないものを感じとった。
彼女はアマンダ=エステーべでブラスの遠縁にあたる娘だ、美しい赤毛の大柄な娘で、色白でエメラルド色の美しい瞳をしている。
非常に激しく厳格な気性だが、普段はそれを侍女の仮面で押し隠していた、いい加減な処のあるルディガーのお目付け役でもある。
ブラスは彼女から叔父と呼ばれたが、正確にはブラスの叔母が嫁いだエステーべ家の孫娘にあたる、ベルサーレにとっても遠縁の親戚と言うわけだ。
彼女はブラスの失爵後に公都の情報をクラスタ家に定期的にもたらしてくれていた、もともと彼女をルディガーの侍女に推挙したのもブラスだった。
だが北方民族の血を引いている彼女は、侍女服より戦士の魂を英雄の座に導く戦乙女の武装の方がよほど似合いそうに見える。
「お詫びと御報告を申し上げに参りました」
「改まってどうした!?何か大きな変事が起きたようだな、まずそこに座りなさい」
アマンダは数歩前に進み出て外套を脱ぐ、その下は城の侍女服のままだった。
ブラスはそれを見て驚愕する、それは着替える間もなく城から普通では無い方法で出てきた事を意味していた、城門は外套を羽織ろうと侍女服を着用したままの者を通す事など無い、厳しく管理されているのだ。
薄暗いランプの灯りに照らされた彼女の顔は僅かに強張り、その真っ直ぐな眉が、釣り眼気味の目のラインをこと更に強調していた、
「時間がありませんのでこのまま手短にお話します」
アマンダはルディガーの反逆事件とその経緯を簡単に説明した、敵ばかりの城内で密偵紛いの事をやりながらルディガーの謀殺計画を察知し、ルディガーを城から落としたが、ルディガーを支持する人々に変事を速やかに知らせるべく命を受けた事を説明した。
そして反逆は免罪であると自分の判断を付け加えた。
「私は殿下のお供をしたかったのですが・・・」
ブラスは半ば放心状態だったが意を決した。
「そして殿下は今どこにおられるのだ?」
「殿下はエドナ山塊におられるアゼル様の所を目指すとおっしゃりました、アゼル様と合流できれば我らとの連絡も取り易くなるかもしれません」
「あのアゼルか!?思い出したぞ魔術師とは心強いな」
「ルディガー殿下はエルニアに必要な御方だ」
「申し訳ありません、叔父様もそうおっしゃられると甘えていた処がありました」
「アマンダ、お前が何をしようとしまいと、ルディガー殿下に対する謀略からお前も逃れられんぞ」
「はいエステーべ家はルディガー殿下派と思われてきました、私がルディガー殿下の乳母兄妹でもありますから」
「二年前のふざけた裁定を思えば、我らクラスタ家も無事では済むまい」
「しかしお前を殿下の側に薦めて正解だったな、良くやってくれた」
アマンダは初めて笑った。
「ありがとうございます、殿下ならば必ず切り抜けると信じております」
宰相の直属部隊がルディガーを追って全滅した事も、ルディガーがブラスの娘のベルサーレと合流している事も、宰相が切札を使おうとしている事も二人はまだ知らない。
「今はエステーべ家の方がまずいな、早く行ってやりなさい」
「申し訳ありません叔父様」
「我らも予定通り動く」
「叔父様!?予定通りとは?」
「我が一族もルディガー殿下に近いからな、このような事になる可能性は考えて用意はしてある、忠義の心も大分すり減っていたしな、我らも暫くは身を隠すさ」
「叔父様・・・」
「早くエステーべに行け、今は殿下が切り抜ける事を信じよう、殿下がお戻りになった時にお役に立つ為に生き残る事を考えるんだ、エリセオにも伝えてくれ『お前の娘を推挙して良かった』とな」
「お言葉に甘えます叔父様もご無事で」
アマンダは再び微笑むと、軽く頭を下げると外套を羽織り静かに部屋の隅の闇の中に退っていった、やがて窓枠を踏む僅かな音とともに気配も消える。
しばらくすると一騎の蹄の音が屋敷から遠ざかっていった。
クラスタ家のあるマイア村から20キロ北にあるボルトの町はバーレムの森の入り口と言われている、バーレム森林の奥のエドナ山塊の西側はテレーゼ諸侯連合だ、だがテレーゼへのルートはエドナ山塊の北と南を迂回する街道しか今は存在しない。
ボルトからバーレムを横断するエドナ越えの街道はテレーゼ王国崩壊後に廃れてしまい森に埋もれてしまった。
そんな町の宿の一室で、宰相直属部隊の三名の連絡要員とエルニア軍の連絡将校が不安を募らせていた。
すでに時刻は21時を廻ろうとしているのに伝令すら戻って来ない、彼らは決断を迫られていた。
エルニア軍の連絡将校が口を開いた。
「夜の森を動き回るのを避けて野営している可能性もあるが、こちらから支援を出す必要があるのではないかね?」
「この時間になっても連絡がない以上、あす日の出と共に捜索隊を出すべきと同意します」
「負傷者が出ている可能性がある、20人では数人負傷者が出るだけで動きが取れなくなる事がある、殿下を捕縛しているならなお更だ」
まさか精鋭部隊が一人の捕虜だけ残してすでに消滅しているなどとは想像すらしていなかった。
陽の高いうちに森に迎えを送り出したかったが、ルディガーを追いかけながら逃走経路を公都に報告していたため、エルニア軍がこの町に送りこまれて来たのは日没直前となった、それでも迅速な対応としか言えない。
宰相直属部隊が食い下がらなければ完全に逃げられていただろう、何者かが馬まで手配していたのだから。
エルニア軍に対する指揮権は宰相直属部隊には無い、宰相直属部隊が何も判断できなかったと言うのもまずいので、宰相直属部隊のメンツを守るためにエルニア軍に捜索と出迎え要請の形をとる事になる。
宰相直属部隊とエルニア公国軍の間には確執があるが、表面的には抑えられている。
「では私は報告に部隊に戻る」
エルニア軍の連絡将校は町の郊外に野営している部隊に戻っていった。
ここから先はエルニア軍の仕事になる。
宰相直属部隊の要員達は仲間の連絡を待つ事と無事を祈る事しかできなかった。
公都の魔導庁では精霊召喚術の準備が進められていた、魔道庁の役人たちと魔術師達が明日の儀式の為の準備に慌ただしく駆け回っている。
召喚術に必要な物質で持ちの良いものはほとんどが確保されていた。
「このリストを見ますと、現時点で足りないものは海水に近い塩水が60キロ、大型犬の屍体60キロ相当とあります」
「それ以外は総て確保されております」
「塩水は現地で作れるが犬が少々面倒だな」
「またボルトの町で儀式を行う場を整える部隊を早めに送り出す必要がある」
「明日の日の出とともに設営隊をボルトに送り出す、設営隊の人選はこちらに」
「グスタフは設営隊と同伴させて監督させる」
「必要な物資を確保後に本隊も現地へ」
「儀式の立会は魔導庁長官と総務庁の副長官か、彼らも本隊と共に向かう」
純粋な召喚の儀式以外にやらなければならない仕事の方が遥かに多いのだ。
「ところで殿下の捕捉に失敗した場合、国境を越えるのは明後日の正午ぐらいと推測されているようだな」
「宰相閣下は殿下が万が一国境を越えても、無人地帯ならば問題ないとおおせられた」
「それで良いのか?」
「人ではなく精霊ならば問題ないと仰せだ」