アマンダの旅立ち
その夜は分厚い黒い雲が低く立ち込め星も見えない、もっとも雲が無くても新月から日が浅く痩せた三日月はすでに西の地平に沈んでいた、そして第二の青い月はまだ東の地平線から姿を現してはいない。
その夜のテレーゼ平原の森の中を黒い人影がいくつも進んでいく、小枝を折る乾いた音と踏みしめる湿った下草の後が聞こえてくるだけだ。
その集団は確認できるだけで数十人を数え、声も立てずある方角に向かって進んでいた、黒い集団はどうやら南西に向かっているようだ。
しだいに周囲の樹々が疎らになり、痩せて白く枯れた幽鬼の森に変わっていた。
「止まれ!」
その声は小さい、だが低く良く響き不思議と周囲の森に染み透るように伝わった。
黒い集団は音も建てずに停止した、静かになると周囲の森の闇の奥の足音が聞こえてくる、それもすぐに停止し沈黙の闇に沈む。
「目的地が近い、今夜はここで野営する」
野太い覇気に満ちた声が命を発した、声の主は巨人とも言えるほどの大男で、帝国軍の装備を動きやすく改修した黒尽くめの装備を纏っていた、そして背中に巨大な大剣を背負っている。
その男はグディムカル帝国最強の戦士とその名も高いアルベルト=グルンダルその人だ。
「かしこまりましたグルンダル様」
副官はそれに答えると暗闇の中で野営の手配を始める、あちこちでか細い魔術道具の明かりが灯り人影が動き始めた。
「イェルドここはまかせたぞ」
「ハッ」
そしてグルンダルは振り返りもせず一人進み始めた。
「来いお前たちに見せてやる、この世で指折の穢土を!」
グルンダルは振り返りもせず側近達に呼びかけた。
「はっ!!」
彼は躊躇もせず枯れた森に踏み込んで行く、それに数人の黒い影が付き従う。
一行がしばらく南に進むと樹々は更にまばらになっていった、そして彼らの行き先が大きく開ける、背後の側近たちが息を飲む音が聞こえてくる。
彼らの眼の前に広大な湿地帯が広がっていたのだ、湿り気のある不快な風がその上をそよいでいた。
「これがドルージュ・・」
だれかが思わず囁く、沼地の彼方から伝わってくる例えようのない不快な圧迫感を彼の部下達はすでに感じていたからだ。
次第に目がなれると沼地の遥か先に黒い丘の影が見えてくる、その丘の上に巨大な廃墟らしき影が見えた、
それは大地から生えた魔物の牙の列の様にも見える。
グルンダルが右腕を上げると廃墟を指さした。
「あれがドルージュ要塞の廃墟だ」
「ここが、何かがいるのを感じますが・・・」
部下の一人が答えたが彼の声に僅かな不安が滲んでいた、グルンダルは言葉を続ける。
「ここには強大な怨霊がいる、要塞と共に滅んだ者共の怨霊だ、死の結界に集められた瘴気のおこぼれを吸い強大になっているとさ」
「ここが・・・」
「心配するな道具を置くのは明るくなってからだ、夜は奴が活動する時間だ」
その時の事だった部下の一人が廃墟の一角に灯る光に気づく。
「あ、あの光は!?」
丘の上の巨大な廃墟の一角に薄暗い緑色の光が灯った、そして湿地全体に霞が生まれ視界がしだいに悪くなって行く、やがて廃墟の上に強い光点が輝いた、眩い輝きだがどこか無気力で暖かさは感じられない。
その光で城の尖塔の姿が浮かび上がる、その光は高い尖塔の上で輝いていたのだ。
「はじまりやがった」
グルンダルはそう吐き捨てたがそこに恐怖は感じられない、それどころかどこか嘲るような響きすら感じられた。
「グルンダル様ここは危険では無いのですか?」
幾分動揺した部下達がグルンダルを見つめた。
「ああ、奴が言うには湿地の外には出ないんだとよ、亡霊は要塞に縛られている、亡霊共が護ろうとした要塞に呪縛されているのさ」
その言葉に部下たちは息を飲んだ、だがそれは怨霊の事ではなく北の導師を奴呼ばわりした事だった。
「グルンダル様あの要塞は内部の裏切りで陥落したと聞きますが・・・」
「さてね、勝った者の言い分だけが残るんだよ」
グルンダルは逞しい肩をすくめて魅せる。
やがて沼地の上に湧いた白い霧に要塞は包みこまれ何も見えなくなった、だがその霧の彼方の輝きだけが霧を透かして見えた。
「さて引き上げるぞ、明日は日のあるうちに全て片付ける」
グルンダルは踵を返すと野営地に帰ろうとする、そして足を止めて沼地をふりかえった。
「何かが聞こえるな・・・」
部下たちもその音に気がついたようだ。
「たしかに、何か群衆のざわめきのようにも聞こえますが、はっきりとは聞き取れません」
「まあいい引き上げるぞ!」
グルンダル達は野営地に向かって引き上げて行く、もしもっと要塞の近くにいたならば、その歌が今はなきテレーゼ王国の国歌と気づいたかもしれない。
その低い荘厳で物悲しい歌は濃霧の彼方から響いていた。
陰鬱な夜が去りテレーゼに朝がまた訪れた。
雲はまだ多く隙間から青白い空が見える、雲は風が強いのか西に向かって早く流れる。
その淡い朝の光に照らされた廃村は緑の植物に飲み込まれようとしていた、中心の朽ちかけた屋敷の前に場違いな一団が集まっている。
目立つのは屈強な長身の美丈夫で商人風の服装がまったく似合っていないルディだ、彼に騎士の服装をさせたらさぞかし似合うだろう。
その日に焼けた端正な美貌は育ちの良さを感じさせた。
ルディに向かい合うように黄ばんだ白いローブ姿のアマンダが立っている、彼女は薬の行商人の大きな背嚢を背負っていた。
彼女はフードを被っているので顔がよく見えなかっが、だが隙間から見える彼女の容貌は豪奢で華麗だ。
そしてルディに寄り添う様にベルが立っている、彼女は町娘の様な質素なドレスを着ていた、他に煙突掃除の少年の様な服とメイド服とアマリアからもらった碧緑のドレスを持っていた、だが普段から着る事のできる服はもうこれしか残っていない。
だが彼女の大人びた鋭利な美貌にこの服装はまったく似合っていない、本人は認めていないが貴族の令嬢のドレスが似合うのだ。
そして二人の背後にコッキーとアゼルとホンザ老師がたたずんでいた。
「ルディガー様、では私はこれで・・・」
「うむ手間をかけたすまない」
「いいえそのような・・・アラセアで大きな動きがあった様ですが、できるだけ早くお伝えしますわ」
「頼む」
背後にいたコッキーがおずおずとアマンダに声をかける。
「あのアマンダさん、皆の事よろしくお願いします」
アマンダはコッキーの話をすぐに理解すると微笑みながら頷いた、それはリネイン聖霊教会の孤児の疎開の件だ。
「わかっているわ、サビーナさんに伝えますわ、必要ならお父様達と相談します」
「よろしくおねがいします」
コッキーはいつになく真剣で丁寧に頭を下げた。
「ルディの事は僕、僕達にまかせて!」
ベルがアマンダに微笑んだ。
「あら?ご迷惑をおかけするのではないかしら?」
アマンダは少しムスッとしてから微笑んだ。
「そうね敵にこの世の者では無い何かがいるわ、ルディガー様を頼みますよベル」
ベルからふざけた空気が消えた、そして軽く唇を引き結ぶとうなずく。
「気を付けるよアマンダ」
アマンダは全員を見渡すと、ゆっくりと歩き始めた、彼女の行き先に道はなく森が広がっている、アマンダは聖霊教の山岳派の修行を積んでいた、道なき道を進む事に慣れていた。
最後に立ち止まると振り返り軽く手をふった。
「ではまた皆様!」
アマンダはそう言い残すと一気に加速し森の中に姿を消した、まるで嵐の様だった。
アマンダはクラスタ家とエステーべ家の占領下のアラセナに帰還する、エルニアに接したアラセナはエルニアの現体制の脅威に晒されている、彼女が消えた森の奥をルディはしばらく見つめていた。
それを気遣うようにベルが見上げていたが、それにしばらく気づかなかった。