エドナの高峰
さわやかな朝の陽の光の中、クラビエ湖沼地帯を東西に横断する街道を西に足早に向かう旅人がいた、その行く道はエドナ山塊のウルム峠を越えてテレーゼのアラセナ伯爵領に至る。
旅人は行商人らしく木箱を背負っていた、僅かに黄身がかった厚手の白い布地のローブで全身を覆いその人相や性別すら判然としなかった、その外見からはかなりの長身できわめて健脚な事しかわからない。
背負った木箱は薬の行商人が使う小さな引き出しが数多く付いた物だ、薬の行商人達は町から離れた僻地の裕福な家に薬を売って廻って生業としている。
それゆえ聖霊教会の修道士とならんで密偵が偽装するお約束の職業でもあった、その旅人がエドナ山塊の麓までたどり着いた時にはすでに陽も西に傾きつつあった。
だがその旅人はウルム峠にそのまま向かわずに狭い脇道に入っていく、この道は地元の猟師や木こりしか使わないが、知る人ぞ知るアラセナ盆地を迂回してテレーゼに抜ける裏路だった。
だが脇道に入って直ぐの事だった、落葉樹の森にさしかかるあたり、道脇の倒木の上に腰掛けた聖霊教会の修験者らしき男がいた。
その旅人は僅かに緊張して立ち止まった、相手の修験者らしき男も行商人を見て驚いた様だ。
その男がひと目で修験者と解ったのは、聖霊教の道衣と修験者の身分を示す角笛を胸から下げていたからだ、男の側には大きな背嚢が置いてある、そこから野営に必要な装備が詰め込まれはみ出していた。
「こんにちは」
さり気なく旅人から挨拶を交わした。
修験者らしき男はそこで更に驚いたような顔になった、それは若い女性の声だったからだ。
「ほお、娘さんでしたか」
その旅人は顔を覆っていたフードを外す。
燃え上がるような赤い髪と白磁のような白い顔が露わになる。
「ええそうですわ」
修験者の男の顔に僅かな賞賛の色が浮かび流れて消えた。
「女の一人旅は難儀ではありますまいか?」
その瞬間女性の気が数千倍にも膨れ上がったかのように男には感じられた、まるで見えない圧力を感じ後ろに吹き飛ばされるかと錯覚する程の力だった。
「なんと!!聖霊拳の使い手でしたか!!それもかなりの達人とお見受けしますぞ!!」
「はい、聖霊拳を少々嗜んでおります」
「儂も聖霊拳をかじっておりますが、貴女ほどの域には到達しておりません、その若さで驚きました、貴女ならば滅多な相手には遅れをとりますまい」
何か深く納得したようにその女性を見やる、彼女はそれに微笑みで返す。
修験者の男は彼女の濃いエメラルドの瞳と少し厚めの赤い唇に心が騒ぐのを感じ、その感情を慌てて押しつぶした。
「ところで修験者様とお見受けしますが、このような所で何をされているのでしょう?」
一瞬考え込んだその男はやがて語り始めた。
「ところでエスタニアで一番最初に太陽を見ることができる場所はどこだと思いますかな?」
「エルニアの港町リエカの近くの『希望の岬』ではありませんか?ここが大陸の東の端でしょう」
「いいえ、エドナ山塊の最高峰のアグライア山の山頂でしてな、ここがエスタニアで一番最初に日の出を見る事ができるのです、この山には暁の女神様が住まうと言い伝えられておりましてな」
「なるほど聖霊教の修業としてアグライア山を参拝されるのですね?」
「山頂に神殿や教会があるわけではありませんが、特に力が濃い場所なのですよ」
その女性はエドナ山塊を仰ぎ見た、ここからはアグライア山は見ることはできないが、青い空を背景にして、幾つも連なる連山の山頂付近は黒々とした岩肌に覆われ、その麓はバーナムの大森林にいたる濃い緑に覆われていた。
「私は先を急ぐ旅をしております、そろそろお暇いたしますわ、修業のご無事をお祈りいたします、では縁があればまたお会いいたしましょう」
「おう、儂はもう暫く休んでいくつもりじゃ、まあ歳ですからのう、ふははは」
その行商人はフードを再び深くかぶり一礼して道を進んでいく。
「そうよ、貴女のお名前をよろしければ聞かせていただけないか、儂は修道士ヴァスコと申します」
女性はふと歩みを止め振り返った。
「名乗る程の者ではありませんが、私の名はアマンダです」
そしてアマンダは再び道を進み始めた。
その後ろ姿を見送る修験者は一人こぼした。
「お嬢様、とてもとても行商人風情には見えませぬぞ」
「ねえコッキーうなされていたよ、また泣いていたね」
コッキーが目を開けると、ベッドの側にベルがいて心配そうに見下ろしている。
「心配をおかけしましたです、とても悲しい夢をみていたような気がします・・・」
コッキーは窓の外が明るくなっている事に気が付いた。
すでに町は活気を取り戻し、商人達の呼び込みが始まっている、ハイネの野菊亭の部屋にもその活気が伝わってくる。
「もう朝ですか・・・」
彼女は起き上がろうとしたが頭を抑えて再びベッドに横になった。
「頭が痛い!!」
「もしかして昨日お酒を飲んだからかな?」
「ううっ!?そういえば昨日お酒を飲んだ後の事覚えてないです」
「僕の麦酒も半分君がのんじゃったんだ」
「全然覚えてないですよ」
「いろいろあったし、今日は宿でゆっくり休んだらどうかな?幽界の通路が通じた後はいろいろ調子が悪くなるんだ」
コッキーはベルに力なく頷いた。
「悪酔いしたのも関係あるかもしれないね、僕にも覚えがあるよ」
(あとコッキーには余りお酒を飲ませない方が良いかもしれない)
「アゼルの結界の中に入ればかなり安全だよ、コッキーの事を二人に伝えて来るね」
ベルはそのままルディ達の部屋に向う、コッキーは何か言いたげだったがそのまま見送った。
アゼルもルディもコッキーを休息させる事に異議はなかった。
「彼女には結界の中にいてもらいましょう、彼女は結界から自由に出入りできる様に設定しておきます」
「ではそろそろ行こうか?」
ルディが魔剣ではなく普段使いの剣を手にした時ベルが少し驚いた。
「ルディ!!それを置いていくの?」
「今日はこの剣を他人に預けなくてはならなくなりそうだからな」
たしかにコステロに武器を持ったまま会える見込みはなかった、ルディは危険な相手に魔剣を預けたくなかったのだ。
ハイネの南門を抜け南に向かう街道近くの練兵場に傭兵隊が駐屯していた、それはサンティ傭兵隊と言う名の、アルムト帝国から流れてきた質の高さには定評があったが小規模な傭兵隊であった、今はコステロ商会に丸ごと雇われ、エリオット=アルバーニ隊長に率いられている。
三人は南門を通り抜け新市街を少し南下したところで、目ざといベルが広い庭をコの字型に建物が囲んだ施設を指さした。
「ルディあれかな?」
その施設は周辺をみすぼらしい家屋に囲まれていた、それらは計画性も無く無秩序に立ち並んでいる。
「ああ、確かに練兵所の様な設備があるな、あれは厩舎だな、いってみよう」
サンティ傭兵団は兵士40名ほどの小規模な組織だが、全員が騎兵として行動可能で、そこに厩舎員や鍛冶屋や補給部隊に医療救護兵や魔術師と事務員までもが付随し総員は100名近い。
装備の整備や騎兵の維持など非常に資金がかかる、その世界では高級精鋭な傭兵団として知られていた。
三人はまずエリオットに接触する為にここにきたのだ。
傭兵隊の正門を訪れると、警備の兵がまず三人を阻み誰何する、ここまでは想定内だった。
「お前達はなんだ?」
「私は魔術師のアゼル=ティンカー、先日コステロ商会の商隊がエッベが率いる盗賊団に襲われた時、そちらの兵士の方々を治療した事がありまして、お蔭でエリオット隊長殿とも多少は面識があります、今日は隊長殿にお話があってまいりました」
あの時ルディはまだアゼルの魔道士の服を着ていて、アゼルの弟子兼護衛と言う無理な設定になっていた、またベルは山ガイドの娘と言う設定だった。
アゼルの話を聞いていた正門警備の責任者がそれに応じる。
「エッベだと!?あの話か・・・わかったエリオット隊長に伝えよう」
その責任者は伝令を一人奥に走らせた。