ハイネの野菊亭
夜も更けハイネの野菊亭の酒場からも少しずつ客が消え始めた、だが酒場には酒や料理の臭いと、タバコや怪しげな薬草の煙の刺激的な臭いが入り混じり強く残っていた。
四人は本日のお任せ定食を既に食べ終わり、ベルとコッキーは目をしょぼつかせていた、もしかしたら疲れて眠いのかもしれない、いや酒場の煙のせいかも知れなかった。
突然ルディは声を潜めて話し始める、三人は何か重要な話をしようとしていると察して聞き耳を立てた。
「疲れていると思うが皆すまんな、俺たちはハイネに来て見たものの、セザールに会おうにもコネも何も無い、だが我々がラーゼに向かう道中、コステロ商会の商隊が襲われた場に居合わせたのを覚えているな?」
「よく覚えていますよ若旦那様、私が負傷者の治療に協力しましたね」
「俺はコステロ商会に接近して見ようと思うのだ、向こうも覚えている可能性がある」
「そこはあまり良い評判は聞かないですがね」
「だがテレーゼの裏側に近づけるかもしれない、今は使えそうなコネがこれしかない、奴がハイネの評議委員ならばセザーレに近づく機会も高くなろう」
「それしかないよ『狼の子を得たければ狼の穴に入るべし』そんな諺があるでしょ?」
ベルは少し偉そうに薀蓄をたれた。
残りの三人は『そんな諺なんてあったっけ?』と言った顔をしている。
「ベルの言う事も何となくわかるぞ、確かにその通りだな、俺はコステロ商会に近づいて見ようと思う」
そこに給仕の若い女性の良く通る美声が告げる。
「みなさーん、ラストオーダーですよー」
その元気いっぱいな声は聞いていて心地よい。
ルディはテーブルの全員に目を配ると囁くような声で宣言した。
「今日はコッキーの幽界への通路が開通、いや開いた、いや通じた事を祝って祝宴を上げようではないか」
「変なお祝いですよね?」
コッキーは困惑したした様な顔でベルやアゼルを見る、どうもベルの顔が少し困り顔になっていた。
「ベルさんどうしたのです?」
「いや、開通とか開くとか、少し嫌な言い回しだと思っただけだよ・・・と言うかさ、ただ飲みたいだけなんでしょ?」
ルディがベルの視線からふいっと顔を逸した。
(森の中を逃げていた頃はお酒なんて飲む余裕なんてなかったからね、やっと元の呑兵衛に戻ったんだな)
ベルは心の中で独り言をこぼしながらコッキーを正面から見た。
「コッキーは嫌だと思わなかった?」
「とくに嫌だとはおもいませんですよ?」
「そ、そうなんだね・・・」
同様にアゼルも何か思う所があるのか少し上の空で語った。
「ええ幽界への通路が通じた、これで良いと思います」
さっそくルディは給仕の少女を呼びつける、そこに榛色の髪をした背の高い美しい少女が元気いっぱいにやってきた。
「あれ、君ゲーラの『精霊亭』にいなかった?」
ベルがその給仕の少女を見て驚いた、それに釣られるように他の三人がその少女を見る。
「貴方はもしやセリア嬢ですか?」
アゼルも驚いた様に尋ねる、昨日泊まった『精霊亭』の給仕のセリアに瓜二つだったのだから。
「ええーー!!セリアを知っているの!?セリアはゲーラで働いている私の妹なのよっ!!」
「驚いたぞ、そっくりではないか」
「いやねー皆んなそう言うわね、あはは、あっ!!まず注文をお願いしまーす、私おこられちゃう!!」
少女は厨房の方を振り向いた。
「麦酒を大ジョッキ四杯たのむ」
「ちょルディ!!僕達の分もあるの?」
「私お酒なんて飲んだ事ないですよ?」
「はは、心配するな飲める分だけでいいぞ、残ったら俺が飲んでやろう」
「ルディ、自分が飲みたいだけなんでしょ!?」
「ベルさん奥さんみたいですよ?」
「いや、なんでそうなるの!?」
ベルが慌てて言い訳を並べながら上半身だけで不思議な踊りを踊り始める。
「えーこれで確定ですか?ラストオーダーになるのでよろしく!!」
「おう、たのんだぞ!!」
「はーい麦酒大ジョッキ四杯入りましたー!!」
少女は厨房に向って良く通る大きな声で注文を告げた。
彼女は語尾を強調するクセがあるのだろうか?ルディは内心でそれを訝しんだ。
「そうだ、私の名前はセシリアよろしくねっ!!」
そして給仕の娘は踊るような歩き方で厨房に帰っていった。
「歩き方もあの娘とそっくり」
ベルがその後ろ姿を見送り呟いた。
「ああ、そうだ、いろいろ有りすぎてすっかり忘れていたけど、コッキーは君を攫おうとした連中と知りだっけ?」
「はいジンバー商会の人達で運び屋の元締めなんです」
「でもなぜ攫おうとしたのかは良くわかりません、約束に遅れる事なんて今までもあったのです」
ルディがそこで口を開いた。
「孤児が運び屋をやる事が多いと聞いたがどう言う事なんだ?」
「聖霊教会が孤児院をやっているのです、ハイネの教会からあちこちの教会に物を運ぶ仕事は孤児の特権なんですよ」
「保護されているのか?」
コッキーはベルトに付けられた小さな木の札を見せた。
「これがあるとどこでも通れるのです、でも教会の仕事だけじゃなく他の物も運ぶことがあるのですよ」
「ほう、運び屋には便利なのか、他にどんな物を運んでいるのかな?」
「教会の荷物は儀式に使う清められたお水や薬草です、ジンバー商会の荷物は中身は知らないのです」
三人は顔を見合わせた、いろいろ裏が有りそうだなと。
「おまたせー麦酒大ジョッキ四杯でーす!!」
そこにセシリアが大きな木製のジョッキを持って四人のテーブルにやってきた。
イルニア公国の公都アウデンリートその中心に聳え立つ大公家の居城、その城も夜もふけて、城のあちこちに灯された警備の篝火にオレンジ色に照らされていた。
その居城の大公妃の後宮に、女主人であるテオドーラ大公妃と息子のルーベルト公子、そして隣国アラティア王国の大使のローマン=アプト男爵が集まっていた。
彼らは昨日到着したクライルズ王国の使節団が申し込んできたマルチナ王女とルーベルト公子との縁談に対応すべく集まったのだ。
「驚きました、大公妃様も知らされていなかったとは、クライルズ王国の首都から使節団が発ったとして、ここまで来るのに五日以上かかりますれば、動きが早すぎますな」
大使のローマン=アプト男爵の言葉から内心の焦りを感じさせた。
いきなり縁談話が持ち込まれるわけもなく、事前に両国の間で事務的な交渉が行われていたはずで、それもルディガーの謀反事件よりも遥か以前から話が進められていたと判断するしかなかった。
「あの人は知っておられたと思いますか?」
「大公殿下はご存知かと思いますが、何も知らなかった可能性も無いとは言い切れません」
テオドーラ大公妃の顔に呆れた様な苦悩するかの様な影が映ろう。
「まったく冗談に聞こえませんわね、しかし先手を打たれてしまいましたわ」
「ルディガー殿の謀反事件からあまり日が経っていないので、暫くは動きが無いと思いこんでおりました」
「総ての絵を描いているのはギスランね」
「宰相閣下の思惑通りでしょう、これはエルニア諸侯の希望に沿った動きでもありましょう」
「わかっておる、ルーベルトが後を継ぐことに不満のある者はほとんど居らぬが、どこと婚姻するかはまた別ですからね」
「昔はアラティアとエルニアは争っておりました、両国の平和と安定のためにも更なる結びつきを強める必要があると私は愚考致します」
ローマン=アプトはそう語った。
テオドーラは敵地に乗り込む覚悟でエルニアに嫁いできた、そこでルーベルトを設け世継ぎの母となったのだった。
彼女は実家との関係を更に強化したかった、もちろん実家の影響力で己の立場を強化したい野心もあるが、両国の平和を守りたいと言う願いもまた嘘ではなかったのだ。
「すみやかにアラティアから婚姻の申し出を出して貰うしか無いわね、公式の使節とは言え返答を即答するわけはないですから、返答は後日エルニアから使節団を送り伝える事になるはずです」
「はい、大使館は昨日アラティアに急報を送っています、こちらからも本国にそれを提案いたしましょう」
「妾は大公殿下がこの度の事を知っていたか探ってみましょう」
テオドーラはセイクリッドをなんとか焚き付ける事ができればクライルズ王国との縁談話を妨害できるか、時間稼ぎができる可能性に思い至っていた。
「あの人が内心ギスランを疎ましく思っているのは解っていますのよ?」
その場で沈黙を守っているルーベルト公子はまたどこか居たたまれない苦しげな表情をしていた、総てが自分の意思の預かり知らぬ処で進められていくのだから。
大公妃から薦められて始めたアラティア王家の養女のカミラ姫との文通、ルーベルトは彼女の優しい手紙を思い返していた。