動きはじめた戦雲
ベルとコッキーの二人はコースタードとラーゼを結ぶ狭い街道を無視して暗い森の中を真っ直ぐ突っ切りながら爆進していた、テレーゼ平原も近くいつのまにか足元もなだらかになっている。
すると先頭のベルが足を緩めるながら右手の森を見つめはじめた、後ろのコッキーはまたかと言った顔をしながらベルに追いついた、だがベルは森の奥を見つめているようにしか見えなかった、だが彼女は遥か遠くを見ている。
「ベルさん何かいます?」
コッキーはベルの背後に近づきながら右手の森を見るが深く茂った樹々しか見えなかった。
「西の方から大きな命の塊がくる」
「東じゃないのです?」
コッキーはアラティア軍の増援なら東から来ると思い込んでいた。
「ううん、アラティア軍が引き返してきたのかも、面倒だからさっさとラーゼを迂回しよう」
「ハイなのです!」
コッキーの言葉とともに二人は加速しながら森の中に飛び込んで行く。
マルセラン城市の北方の半日の距離にグディムカル帝国軍が東西に伸びる長大な野戦陣地を築いている、皇帝の親衛隊を含む大軍の到着でその陣容は厚みを増していた。
すでに大本営の大天幕も半ばまで完成し、その前に黒い翼竜の大軍旗がテレーゼの暖かな陽光の元ゆったりとたなびいく。
その近くに設営された仮本営の一角に途切れる事もなく伝令と士官が出入りしている、彼らがグディムカル軍の各部隊からの報告と帝国本国からの報告、そして世界各地に潜む密偵からの情報を伝える、それらは精査されてから皇帝の元に上げられるが、それでも皇帝の判断を仰がなければならない案件の数は多い。
そこに副官のグラウン伯爵が司令部から仮本営に戻ってくる、皇帝は業務に没頭しているところだった、皇帝は彼に気づいて一瞥する、そして書類にサインを入れそれに赤い印蝋を押した。
「どうした?グラウン」
一息ついてからグラウンが応える。
「ラーゼの密偵からの精霊通信です、アラティア軍の増援約五千がラーゼに入ったもよう、増援は西から来たもようです」
「アラティア軍の後軍は一万程だったなそこから軍を割いたか」
「そう判断いたします」
「で例の砦の状況は?」
「ハッ、コースタードから急遽建築資材と増援を峠に送り出しましたが・・敵は砦の前面に防護柵を構築しています、その兵力は約三千」
「砦が焼け落ちるとはな、あいつは時々ポカをやる」
あいつとは帝国の英雄の黒い戦士を指しているのは言わずと知れている、賢明にも皇帝の独り言じみた言葉にグラウンは触れる事はなかった。
「ラーゼの後詰めのアラティア軍が峠に進出、アラティア軍の後軍から割いた部隊がラーゼに入ったと言ったところか」
「その様なところかと」
皇帝はしばらく熟考を始めると暫くしてからグラウンを見た。
「ラーゼのアラティア軍の動きを見落とすなよ、至急コースタード峠の護りを固めさせろ」
皇帝の口調は強くそれに副官は僅かな不審を感じた様だ。
「峠のアラティア軍は陣を構築しております、持久戦の構えかと」
「我が軍は砦を無傷で接収する予定だった、たいした資材を運んでおらんはずだ、コースタードの守備は最小限で良い」
「ハッ、そのように手配いたします」
そう言い残すと去って行った。
皇帝は憮然としながらも溜まった仕事に取り掛かり始めた。
日もかなり傾きあと二時間ほどで日没となる頃、リネインの城門を二人の若い女性が通り抜けようとした、壮年の門番は慌ててその二人を呼び止める。
二人の薄汚れた姿に顔をあからさまに顰めたが、よく見ると二人共大変美しかったので余計に不審を感じたようだ。
「これを見て下さいよ!」
すかさずコッキーが孤児院に所属する通行証を見せると、門番は顔を緩める。
「よく見たらコッキーじゃないか久しぶりだな、短い間に大人っぽくなったな」
「女の娘は3日会わない間に蝶になるのですよ」
門番の男はその返しに大笑いをした。
「もう幼虫のコッキーじゃないんだな」
男はそう言ってから更に大きな声で笑った。
コッキーの顔が次第に不機嫌に変わって行くイモムシと一緒にされたからだ、ベルはそんなコッキーを早く行こうとせかす。
そのまま二人は門を通してもらった、そしてそのまま街の中心に近いリネイン教会を目指す、コッキーが育ったリネインの孤児院は教会の敷地の中にあった。
コッキーの案内で教会の礼拝堂には寄らずそのまま敷地の奥の孤児院を急ぎ足で目指した、すれちがう者達がコッキーに気づくとあいさつをかわす、そこに下働きの壮年の女性が声をかけてくる。
「コッキーじゃないか久しぶりだね」
彼女は近所に住む手伝いの女性でコッキーの昔からのなじみだ。
「カーリン様はいますか?ご挨拶しないと!」
「この時間だと修道女長室におられるはずだよ」
それを聞いたコッキーは別れを言うと先を急ぐ、今日は時間に余裕があるわけではない。
コッキーは懐かしい修道女長室の扉の前に立つ、今まで何度この扉を叩いた事だろう、そんな思いが胸に込み上げてきた。
コッキーはおそるおそる扉を叩くと懐かしい温かい音がした。
「その叩き方はコッキーね?お入りなさい」
中から懐かしい声が聞こえてくる、最近ここを出た筈なのにあれから長い時間が経った様な気がした。
扉を開くとカーリンが立ち上がったところだ。
彼女は初老の風格のある女性でその容貌が若い頃は温かみのある清楚で美しい女性だったと感じさせた。
コッキーはそのままカーリンに抱きついた、コッキーは薄汚れていたがカーリンはまったく気にしていない。
そしてカーリンはコッキーの後ろから部屋に入ってきたベルを見て軽く目を瞠った。
「もしや何かありましたか?」
「いいえコッキーは大丈夫です平気です、でも孤児院が心配で見にきたのですよ!」
それでカーリンは何かを察した様子だ。
「大きな戦が近い様ですが、今のところは心配はいりませんよ」
「でも、今のうちにみんなをどこかに逃がす事はできないのです?」
カーリンは鎮痛な顔をしてから頭を横に振る。
「万が一に備えてそうしたいのですが、簡単にはできません」
コッキーがベルを見つめる、するとカーリンも初めてコッキーの考えに気づいたようだ。
以前ジンバー商会から逃れる為にハイネから逃れた修道女のサビーナとファンニと孤児院の子供達をアラセナに送り届けた事があった、その時準備を整えるまでリネインの聖霊教会に彼らをかくまってもらった事があったのだ。
カーリンはベルに向かって軽く目礼すると口を開いた。
「サビーナ様達はアラセナに無事に着きましたか?]
ベルはそれにうなずく。
「アラセナの教会にいるよ、子供達も無事だって」
カーリンはそれを聞いて微笑んだ、コッキーは正直に胸の内をあかした。
「ベルさんお願いします、みんなをアラセナに逃してください」
「わかった、精霊通信で連絡をとって受け入れてもらえるか話をしてみるよ」
カーリンは何かを思い出した様子だ。
「精霊通信を使えるのですね・・・アゼル様ですね」
「そう」
ベルはカーリンの疑問に短く答えた、あまりこの話をしたくないのが見え透いていた。
「あの、ベルさんよろしくお願いいたします」
カーリンはベルに向かって深く頭を下げた。
不安が一つ解決したコッキーは晴れ晴れとした顔をしている。
「カーリン様もみんなと行きましょう」
だがそれにカーリンは頭をふった。
「いいえ子供達を逃しても、私はここを離れる事はできないのですよ、コッキーあなたなら解りますね?」
「わかっていたのですよ、でもイヤなのです」
コッキーは美しい顔を歪ませる、その蒼い宝石の様な目から涙があふれた。
カーリンはコッキーを強く抱きしめた。
「まだ決まったわけではありません、ここは戦場から離れていますから戦場になると決まったわけではないわ、それでも万が一の用心に備えるのですよ?」
カーリンは泣きじゃくるコッキーの背中をさする。
「でも問題の一つが解決するかもしれないわね、それだけでも精霊王に感謝しないと、すこし希望が見えてきたわ」
カーリンはそのままベルに向かって再び深く頭を下げる。
「コッキー貴女はこのまま泊まって行きますか?子供達も喜ぶわ」
コッキーは頭を上げてベルを見た、ベルは薄く微笑んだ。
「泊まって行ってもいいよ、僕一人で帰って報告するから」
「いえ、修道女長様やっぱり帰ります、みんなと相談しないとだめです、このまま急いで帰ります一日も一時間も無駄にできないのです」
コッキーの言葉は強かった。
カーリンは窓の外を眺めた。
「今から大丈夫かしら?・・・わかりましたあなた達の判断を尊重しますわ」
そして閉門を告げる鐘の音とともにベルとコッキーはリネインの城門を飛び出した、そのまま夕暮れ迫るハイネ=リネイン街道を二人は人では有り得ない速度で西に向かって駆け抜ける。