エルニアからの知らせ
南下するグディムカル軍の前方に視界を横切り立ちふさがる防壁が姿を表す、幾つも木の櫓が立ち並び、それをを繋ぐように丸太を打ち込んだ簡易な柵が築かれていた。
陣が近づくに従い兵達の間にどよめきが上がる、彼らもこれほどの陣地を見たことは無かった、本隊は解散しながら部隊はそれぞれの配置場所に向かって展開して行く。
皇帝と近習三十騎はそのまま大本営の予定地に向かう、皇帝を見た作業中の兵達は驚く、中には口を開けたまま見送る者すらいた。
そこは最前線から奥まった場所だったが、兵たちが逆茂木を地面に打ち込み防壁を建設している、建材が途切れる事無く運び込まれ、兵士達が運び込まれた天幕を広げ野営地を設営していた。
ビューグルが高らかに鳴ると兵たちは一斉にこちらを見た、その瞬間畏怖と畏敬の色が兵達の表情に浮かぶ、何人かは作業の手を休めひざまずく。
皇帝が片手を上げて制する。
「よい、作業を続けよ!」
皇帝の良く通る力強い声を聞くと全員身を震わせた、戦時でなければ皇帝の声をこんな身近で聞くことなどできない。
「陛下こちらへ」
側近のエメリヒ=グラウン伯爵が皇帝に声をかける、グラウンの示す方向に小さな天幕がいくつか見えた。
「本営が完成するまで、あちらでお休み下さい陛下」
「わかった」
皇帝と近習はそのまま天幕の場所に向かった。
その天幕の集まりは仮設の大本営だった、先行した司令部要員が天幕を設営し彼らの主君を待っていたのだ。
皇帝は仮設の天幕に入ると簡素な玉座に腰を下ろすと小姓が折りたたみ机を持って皇帝の前に設置した。
グラウン伯爵は主君が落ち着くのを確認してから口を開く。
「私は報告をまとめてまいります、30分後に報告いたします、御前会議は今夜となります」
「わかった」
彼は一礼すると天幕から出ていった、そこに少年の小姓が茶を持ってくる、皇帝のお気に入りの南方の有名な銘柄の紅茶の香りが漂う。
彼は銘柄にこだわりなど無いがその味と香りが気に入っていた。
「ごくろう」
そう小姓をねぎらうと少年は静かに微笑んだ。
「おそれいります陛下」
小姓そのまま下がる、茶を飲む時に主君は黙考する事が多かった、その思考を邪魔しない為に言われる前に気を使い下がるのは側使えの常識だ。
皇帝は茶に口をつける、正しい茶の入れ方ではないがいくぶん温めの茶が心地よかった。
戦場では生水を飲むことは非常時以外は禁じられていた、一度沸騰させた湯を飲むことが推奨されていたのだ、だがそれができるのは士官や貴族出の騎士ぐらいだけだ、彼は水分補給のかわりに茶を飲んでいたのだ。
そして一時間前に感じた『この世ならざる者達』の気配について思いをめぐらす。
その力はおそらく二人、一人は幽界の神々の眷属で間違いない、もう一人は弱くそして異質な気がしたがはっきりとわからなかった。
「奴らは聖霊教世界の者共なのか?・・・聖域神殿に繋がる者は知っていたが、今までユール内部の者共ばかりだ、愚かな」
皇帝は高価な陶磁器の茶器の中身を一気に飲み干す、やはり喉が乾いていたのだろう。
すると先程の小姓が再び茶を持ってくる、こんどは先程より強い香りが漂う。
それは教本になるような完璧な茶の入れ方だった。
その強い香りが彼の頭をすっきりとさせる。
改めて小姓の顔をみるとその少年の顔に見覚えがない新顔だった。
「おまえの名は?」
少年は急に名を尋ねられて一瞬狼狽したがすぐに立ち直る。
「はっ!!私くしはアタナス=グラウンと申します陛下」
緊張しながら答える、声変わり前なのか透明感のある美声だ。
皇帝は僅かに表情を緩めて微笑む。
「グラウン家の者か?エメリヒが近習に上がると言っていた者か」
「はい、エメリヒ=グラウンの息子グスタフの次男でございます」
よく見ると彼に僅かにエメリヒの面影があった、淡い金髪に薄いブラウンの瞳、端麗で美しい美貌の少年だ。
だが体格はしっかりしていて武名でならしたグラウン一族らしい少年だ。
「良く努めるように、祖父や父上に負けぬようにな」
そう鷹揚に語りかけると、アタナスは顔を紅潮させ嬉しそうに微笑む。
「はい、精一杯努める覚悟でございます」
「それでいい」
皇帝はそういいながら退席を促した、近習の少年は一礼すると壁際に下がり待機する。
しばらくするとグラウン伯爵が天幕に戻ってきた。
「報告いたします」
伯爵は壁際の少年を表情を変えずに一瞥した、少年は一礼すると控え室に下がる、同じく壁際に控えていた魔術師が進み出ると防音結界を張った。
「ハイネの工作員が例の殿下との接触に成功いたしました」
グラウンは薄汚れた羊皮紙を差し出す。
「よく接触できたな期待してはいなかったが・・・どんな魔法を使ったのだ?」
グラウンはこんどは綺麗な羊皮紙を取り出した、これは記録として残す為の物だ。
「事情はこれにて、情報部が整理したものですが、中枢がハイネ城に入った事により連合軍の内情を探りやすくなったもようです」
「なるほど」
皇帝はその報告書を読みそして低く笑った。
「なるほどカルマーン大公が倒れた事がこれほどの影響を及ぼすとはな」
そして目の前に立つグラウンを見上げた。
いくぶん苦笑しながら彼は答えた。
「まったくその通りでございます」
「念の為に愚物を快楽漬けにして戦に興味を持たぬようにしようと言うのか、敵ながら同情するが、しかし工作員がこの魔術師の女の弟子になっていたとはな、上位ニ属性の魔術師などめったにいないぞ、無駄遣いだ奴らは何を考えているんだ?」
「誠にお耳にいれるに憚られますが、彼女が殿下の理想的な容姿の持主だったからだそうで」
「よほど美しいのかその女魔術師は」
皇帝は更に皮肉な笑みを深める。
「連絡員の報告では、美しいが好みが分かれると・・・」
「なるほどな・・・」
「して何かさせますか陛下?」
「いや奴を暗殺する価値はないしこの女は貴重な目と耳だ、名目上の総司令官だが価値のある情報が得られる可能性はある。
そして敵を内部からかき回してみせろ、混乱させるだけで良い、もともと計算外だ」
「かしこまりました」
皇帝は更にグラウンび先を促した。
グラウンは躊躇したが口を開く。
「エルニアのアウデンリートからの精霊通信です、重要度が高いと判断されるのでお伝えを」
「エルニアか!」
皇帝はわずかに身を乗り出す。
エルニアは数の上では最大五万の動員力があると言われていたが、遠征能力にいちじるしく欠けている事が知られていた。
精々一万と見積もられている。
「エルニア軍務庁が内密に物資集積を発令した兆候があると」
「兆候だと不確定だな」
「戦火が近いと備えたか、あるいは連合軍として参戦か、もしくは・・」
最後の言葉は苦々しい表情とともにグラウンの口から吐き出された。
「奴らの予言ならばな」
グラウンは敬愛する主君を真っ直ぐに見つめる。
「グラウンご苦労、御前会議まで休むが良い、俺はこれからやってくる隊長共の挨拶を受けねばならんが、お前がいなければならんわけではない」
本部付きの士官が手配を開始した、たがて侍従長が進み出るとグラウンの代行を名乗り出る。
皇帝は鷹揚に応えた。
グラウンは複雑な表情を浮かべたがそのまま一礼すると天幕から下がって行った。