北の導師の囁き
その日ついにグディムカル帝国軍大本営が南下を開始した。
皇帝親衛隊五千を含む二万の大軍がグリティン山脈の南の根拠地からついに動いたのだ、すでにマルセラン城市とグリティン山脈のふもとの根拠地の中間地点に大街道を封鎖するように一万五千の部隊が野戦先陣地を築き展開していた、その陣は東西数キロにも及んでいたが規模のわりに兵は少ない。
だが連合軍はマルセラン城市の陣地に二万以上の軍が集結し、更にアラティア軍の後軍とついにセクサドル王国軍がその姿を現そうとしている。
未だにグディムカル軍三万近くがグディムバーグ要塞に向かって行軍中だ、広大な帝国各地の軍を集結させるのは容易ではなかった。
すべてが集結するのにまだ三日ほど時間がかかる。
皇帝トールヴァルドは集結済みの二万の軍の南下を決断した、その命令は昨夜の深夜の御前会議で下されたのだ。
それはコスタード砦が黒い剣士率いる特殊部隊に陥落させられた時刻だった。
大街道を南下する軍の中心に、一際華美で威厳のある武具で身を固めた壮年の騎士がいる、漆黒の武具は煌く黄金の装具で飾られ、同じく漆黒の兜を飾る翼竜の前立ても綺羅びやかだ、その黒と黄金の対比が美しい。
その前立が許されるのはグディムカル帝国皇帝その人だけだ、内乱中は伝統ある正規の兜は皇弟の頭の上を飾っていた、そのせいかトールヴァルドはその兜を被るのを良しとせず、とはいえ廃棄もできぬことから兜は宝物庫の奥に鎮座する事になる。
そして新たに豪奢な兜と前立てを作らせた、その綺羅な騎士の周囲を伝令騎兵と親衛隊が厳重に固めている、個として武勇にすぐれた皇帝だったが、彼の近くに敵を寄せ付ける事など言語道断、大本営を中心とした円の内部は厳戒体制が敷かれていた。
トールヴァルドは何者かが己に意識を向けるのを感じた、軍の中で宮廷でいつも自分は意識を向けられていた。
鋭敏なトールヴァルドはそれに慣れていたので無意識で無視する事ができたる、だがそれは針の様に鋭利で鋭かった、そして極めて遠くからそれを感じる事ができた。
その方向を探ったが見えるのは周囲に広く展開する斥候と護衛騎兵の姿だけだ、その視線がはるか遠くの巨樹を捕らえた。
脳裏にまさかと確信が交差した、あの樹の上に何者かがいる、そして内戦のさなか何度か遭遇した『人ならざる者達』の存在を確信した。
トールヴァルドはつい微笑みを零す、そしてまっすぐ視線を前に戻してしまった。
そんな皇帝に背後を進む側近のエメリヒ=グラウン伯爵が声をかけた。
皇帝に直接声をかける事は平時では許され無いが、戦時ではそれが緩められていた。
「陛下、コースタードの状況が判明いたしました」
皇帝が後ろを振り返ると顎で促したので、グラウン伯爵が馬を寄せると側使えの魔術師が命令されるまでもなく防音結界を展開した。
周囲の騒音が立たれたのを確認した皇帝は左手に並んだ側近を一瞥すると口を開く。
「何かわかったかエメリヒ」
「はっ、砦に火を放ったのはハイネ通商連合のラーゼの魔術師でした、砦には可燃物が蓄積されており万が一の時には砦を焼き利用させない方針だったようです」
「まあ当然の備えだ、だが牽制には十分なはずだ」
「敵はコースタードの敗残兵を吸収、アラティア軍の後軍から五千をラーゼ方面に割いたもようです、ラーゼ方面に一万程の兵力を配しています」
「こちらにまわす兵力が減ったな」
「ですが予定が狂いました、砦が焼け落ちたのでコースタード峠の護りが弱くなりました、逆侵攻に備えコースタード城市から追加の増援を送るべきと愚考いたします」
「そうしろ」
「また峠を固めた部隊は柵を築き防備を固めておりますが、ラーゼ方面から敵が部隊を出しております」
「こちらに合わせる形で柵を築くつもりだ、そうすれば動かせる兵を抽出できる・・・」
「ならば圧力をかけ敵を釘付けにいたします」
トールヴァルドは無言でうなずいた、それは小さな会議の終わりを意味していた。
「これにて」
グラウン伯爵が去ると防音結界が消える、すると周囲の騒音に包まれた。
武具の擦れ会う音と蹄と荷馬車の立てる嵐の様な轟音だ。
だが皇帝の周囲に静寂がふたたび戻る、皇帝は平常を装っていたが僅かな不快さを押し殺すかの様な顔を見せた。
『陛下、グルンダルめが幽界の神々の眷属と接敵したぞ』
それは耳元から聞こえて来た、だがそこには誰も居ない、長い管の向こうから聞こえてくる枯れた原野を流れるような乾いた聞き取り難い声。
皇帝は胸元の魔術道具にそっと触れた、これもまた防音結界の魔術道具だ。
「早いなさっそくか、グルンダルだけでは手がたりないか・・・」
皇帝の声はどこかあぜけるようだ。
『無事を疑わないのか?まあよい、こちらも手の者達を増やす、敵は幽界の眷属だけではないぞ皇帝』
「わかっているさ、俺に恨みのある者共が魔界に落ちた、だが導師よいつまで仲間割れをしているのか?」
『魔界の神々は己の欲望に忠実なのだ、一致団結できるわけではない』
「それで大事がなるのか?」
『それは幽界の神々とかわらぬ、ユール神族を見ればわかろう』
皇帝は肩をすくめてみせた。
『だからこそ指導者が必要なのだ、強大な・・・今はその話ではない、幽界の神々が動き始めている、皇帝も警戒したまえ』
やがて声は途切れる、皇帝は胸元の魔術道具に触れた。
ふたたび喧騒につつまれた、皇帝の表情から内心は読み取れない。
「ユールの神々を侮辱する事は許されない」
皇帝はそう小さくささやいた。