皇帝トールヴァルド五世
テレーゼの夏の終わりを告げる風は肌に心地よい、その風を切り裂くように二人の人影が人目を避けるように北に向かって駆け抜けて行く。
一人は背の高い屈強な若者で背中に巨大な大剣を背負っている、彼の商人風の姿と大剣がまったく調和していなかった。
その後ろから薄汚れたローブを纏った女性が追いかける、女性だとわかるのはフードが捲き上げられ美しい白皙の美貌があからさまになっていたからだ。
そんな二人の姿を偶然みかけた者達がいた、戦を避けるために遅まきながら避難を始めた近くの村の農民の一家だ。
壮年の夫婦と子供が四人いた、山積みの家財道具の上に子どもたちが座っている。
彼らがいた村人の住民はとっくに逃げ出していたが、彼らは最後まで村に残っていたのだ、だがグディムカル軍の南進を知り耐えきれずについに村を捨てたばかりだ。
父親らしき男が家族と道具を満載した荷馬車を曳く驢馬をせかしていた。
「みてとうちゃん、凄く早いよ!!」
快活そうな少年が積み荷の山の上から尋常ではない無い速度で走る二人に気いた、だが農夫の妻は幼い子どもをあやすのに気を取られ無関心だ。
「なんだって?」
男はのっそりと子供の指す先をみる、たしかに何かが凄い速度で走り抜けて行くがすぐに森の中に消えてしまった。
「今のはなんだ・・・」
農夫の男は気のせいかと思い目を瞬かせると首を傾げた。
「ルディガー様あれを!」
背後からアマンダの声が聞こえたのでルディは足を止める、そこにアマンダが追いついてくる。
「この林の向こうに何かが有ります」
ルディがアマンダの説明した方向を見たが林が邪魔でその先は見えない、アマンダにはこの先が見えるのだろうか?
だが彼女は聖霊拳の上達者で鋭い感覚の持主だ、何かを感じたのかもしれなかった。
「何か感じたか?」
「はっきりとは言えませんが、たくさんの人の気配を感じます」
「凄いな、聖霊拳の力か」
「そうですわ、でもベルには敵いませんわね・・・」
アマンダはほのかに苦く笑う、その返答にルディは納得したようにうなずいた。
精霊力を帯びた者は生ける者の存在に敏感になる、自分もベルに及ばぬがそれを感じる事ができるようになっていたからだ。
「わかった確認しよう、そろそろマルセランと国境の中間地点に近い」
「はい」
二人は林の中に慎重に踏み込んだ、林の中は人が通った跡が無数に残されている、所々に馬の蹄の跡が目立つ。
やがて切り倒された雑木の切り株が増える、二人はここから姿勢を低くしながら前に進むと、やがて遠くまで見通せる場所に到達した。
「グディムカル軍の野営地だ・・・」
眼前に杭を地面に打ち込んだだけの簡単な作りの柵と物見櫓が林立していた、そしてグディムカルの翼竜の旗が物見櫓の上にはためいている。
それは視界の果てまで続きどこまで続いているのか定かではなかった、兵士達が櫓の上に立ち周囲を警戒している。
「警戒が厳しいな、少し下がろう」
アマンダに告げると適当な茂みにまで下がる、アマンダもそれに従った。
ルディがしばらく野営地を観察しているとふと何かを感じ思わず北の方角を見つめた。
「なんだこれは?北の方に何か大きな気配がする」
アマンダは瞑想するかのように両目を瞑ると、しばらくしてから目を開いた。
「ルディガー様にもわかりますか?わたしは無数の命の気配を感じます」
ルディは苦笑いをした。
「いや戦場の空気だ、大軍の行軍が奏でる地響きや空気の震えを感じるのだ」
「さてはグディムカル軍の増援でしょうか?」
「ああ、かなりの大軍だ確認したい」
「行きましょうルディガー様」
二人は慎重に森の奥に戻る、野営地が見えなくなるとそこからまた北西に向かって駆けた。
そこからマルセラン要塞の西側の森の中を一気に駆け抜けるとやがて視界がひらけた、
広大なテレーゼ平原は豊かな農地になっていた、小さな集落が点在した先、その向こう側に黒いわだかまりが地平を覆っていた。
人馬と無数の荷馬車が巻き上げる砂塵で空がわずかに黄色く染まる、それは行軍するグディムカル軍の姿だ。
更にその先の遥か北に国境の山々の連なりが見える、それほど険しく無い山地なので緑に覆われ穏やかな姿をしていた、この山々の向こうはグディムカルの大地でユールの神々がしめ下ろす別世界だ。
よく見ると軍列は幾筋にも別れこちらに向かっている様に見える。
「ルディガー様、敵は並列に移動していますわ」
「ああ、大軍ともなると列が長くなる、先頭が野営地を出てから最後尾が出発するまで何時間もかかってしまうんだ、前方に味方の陣地があるから分列して進んでも問題ない」
「そうですわね、兵士が一列で行軍すると1万人で10キロになりますものね・・・」
「皇帝がいるとするならば本街道を進んでくるはずだ、それを見ておこう」
アマンダはそれにすぐには答えなかった。
「あのよろしいのですか?」
アマンダは強い決意を込めた瞳でまっすぐに見つめてくる、ルディは彼女が何を言いたいのか察することができた。
皇帝を倒すかと歪曲に主君に意思を問うたのだ。
「観察するだけだ、アマンダ」
ルディ厳しい表情と語感にアマンダはわずかに狼狽した。
「余計な口出しをいたしました、もうしわけありません」
アマンダは少しうつむき表情を消しその内心を伺わせなかった、ルディは彼女の態度に胸が痛む。
「俺の方こそ余計な気を使わせてしまった、はたしてこの力をその為に使って良いのか答えが見つからない」
「私もそれに答える事はできませんわ、エルニアの守護女神アグライアの意思は私ごときではわかりません」
ルディは少し躊躇してから言葉を継いだ。
「だがコッキーは戦うつもりだ」
「あの娘はテレーゼの大地母神メンヤの力を授かっているからですわ」
大地母神メンヤはテレーゼの土地神で聖霊教では大精霊の一柱とされているが、
この地に人が現れる前からこの土地の精霊達を修めていたと言われていたが、
土地神の実体は幽界に存在し、現実世界の土地に対応する幽界の土地を治めていると言われていた。
すべては仮説にすぎなかったが。
「さて皇帝の本営を見に行こう、いれば良いな」
ルディはまるで話題を変えるかのようにアマンダをせかす、アマンダもこの話題から逃げたかったのか柔らかく笑うと答えた。
「はい」
やがて小さな森の中に潜みグディムカル軍を待つ、本街道からかなり離れた距離まで偵察部隊が展開していた、弓矢の射程内に存在する不審者を許さないとばかりに厳戒態勢を敷いていた。
彼らは樹々の上も慎重に確認し進む、ルディとアマンダは本街道からかなり離れた大木の上の枝に昇ると接近してくる帝国軍を観察する事にした。
黒い蛇の様な軍列が近づいてくる、その先陣にはためく金縁の黒い旗が見えた。
「いいぞ、あれは翼竜の大軍旗だ」
ルディの声はわずかに興奮している、となりのアマンダがルディに掴まり身を乗り出した。
「まあ遠いですが、たしかにそれらしいですわね」
「あれは大本営の印だ、あのなかにグディムカル帝国皇帝トールヴァルド五世がいる」
アマンダはルディの体が少し震えているのに気づき驚き主君をおもわず見上げた。
その黒い蛇は近づいてくると黒い軍装に身を固めたニ列の兵士に変わった、そして騎兵の割合が非常に高くそれが高名な皇帝親衛隊である事をしめしている、親衛隊は貴族や騎士の師弟が集められたエリート部隊だった。
やがて一段と綺羅びやかな騎士の集団が現れた、黒を基調としながらも黄金や銀で象った華美な軍装で固めていた。
その中に黄金の翼竜の前立ての豪奢な騎士の姿がる、ルディとアマンダの常人を超えた視力がその騎士をとらえた。
「トールヴァルド・・・」
ルディがつぶやいた瞬間、その騎士がこちらをまっすぐ見たのだ、アマンダが息を飲む音が聞こえてくる。
そしてその騎士はすぐにまっすぐ前をむいてしまった。
だがルディは騎士が笑ったような気がしたのだ、どこか嘲る様な皮肉な笑いを浮かべた様な気がした。




