戦雲近し
緑豊かなテレーゼ平原を貫くように東西に走るラーゼ=マルセラン街道を巨大な赤い蛇のようにアラティア軍が西に進撃してゆく。
田園の中を穏やかな風が吹き抜け、空は快晴で抜ける様に青く僅かな雲の筋が西の空に向かって流れて行く、赤き勇壮な大軍はアラティア軍の本隊で総勢一万五千程にもなる。
だが一見すると勇壮だが内実は勇壮でも華麗からもかけ離れていた、マルセラン方面から空荷の補給部隊が列を成して引き上げてくるので渋滞が発生していた。
馬のいななきと飛び交う罵声に武具が立てる騒音、隣の兵の言葉も通らない程の喧騒に包まれ、おかげで軍列は伸び切り長さが20キロを越えようとしていた。
引き上げて来る空荷の荷駄隊は臨時徴発された農民が殆どで、彼らはマルセランに物資を運んだ後は臨時雇用され編成された輜重部隊に任務を引き継いだ、おかげで徴発兵の半分はこれで国に帰る事ができる、注意深い者なら彼らの中に若者の姿が少なく壮年の男が多いのに気づくだろう。
彼らも食料を消費するのでむやみに数を戦場に置けなかった、だから帰す者はさっさと帰して生業に戻す方針なのだ。
彼らは皆どこかほっとした表情を浮かべている。
それでも雑役夫として一万人ほど戦場近くに残ることになるが戦力としてたいした期待はされていない。
「うるさいのう、しかしこれだけの軍を動かしたのは何年ぶりだ?」
総司令のコンラート侯爵は馬糞の悪臭に鼻に皺をよせながらこの喧騒に耐えていたが、我慢できずにかたわらの副官ブルクハルト子爵をふりかえって文句を言った。
だが老練の武将も聞き逃したらしい、彼もさすがに最近耳が遠くなっていた、それでも将軍が何か言っているのはわかったらしい。
「何かおっしゃいましたか?将軍」
「これだけの軍を動かしたのは何年ぶりだ?」
怒鳴るように自慢の低音の効いた大声でコンラートはふたたび問う、これはさすがに通じた様だ。
「そうですな、二十年前の三伯戦争いらいですかな」
コンラートは真顔で黙考を始めた。
ベラール湾の南に今はエルニアに臣従している三伯爵の領地がある、もともとアラティアが南に勢力を伸ばそうとしていた時代に抵抗した土豪の勢力だ、だがセクサルド帝国の勃興とともに彼らは帝国に臣従し伯爵に封じられ、帝国と共謀しアラティア王国を帝国に屈服させたのだ。
そしてエルニアにアストリア家がアウデンリート公爵として封じられても、帝国の直臣の立場を維持していた。
だがテレーゼを支配下に置いて70年後に継承者争いに勝ち抜いたアルヴィーン大帝の元、帝国は全盛期を迎え東エスタニアを統一し大陸統一に動き出した矢先に大帝は崩御、それから帝国はあっけなく崩壊した。
そしてアラティア王国の復興後に再び三伯爵との緊張が高まる、だが三伯爵の後ろ盾にエルニア公国が付いた。
その後は10年にわたり小競り合いが続いたが、20年前に大規模な戦いに至る。
だが双方共に戦いに嫌気が指していた事、建国大公とアラティアの先代王が高齢により健康が悪化、その後は和平が結ばれ安定の時代が訪れた。
それ以降は両国ともそれぞれ内部に目を向ける事になる。
そして三伯爵はエルニア大公爵に臣従する事になった、これで好き勝手な事ができなくなるが領地はエルニア公国が保証する事になった。
「あれか、あれが最後の大戦になるか」
コンラートは昔を懐かしんだ。
「将軍も参加されておりましたな?」
「あの頃は若造でな騎兵の小隊を率いていたわい」
コンラートは豪放に笑う。
「さてセクサドルの前軍も今夜ハイネに到着するか」
「ならばマルセランに姿を現すのは明日の夕刻になりますな」
「ああ、全軍の集結までまだ五日はかかろうな」
「ところで将軍、どこを決戦とお考えですか?」
「相手の出方も有るからのう、皆の意見を聞いてからよ」
コンラートはその重々しい声質で人を落ち着かせる特技の持ち主だが、言っている事はかなり頼りない、だが意外と部下の評判は悪くない男なのだ。
だが副官のブルクハルトはまたかと言った微妙な顔をしていた。
その間にも軍勢はのろのろと西に進んでいく。
コンラートらが噂をしたセクサドル軍もまた、アラティア軍と同じ空の元をハイネに向かって進撃していた、黒き獅子の軍旗をなびかせて街道を駆け抜ける。
通常では八日かかる行程をテレーゼ諸侯の支援により実戦部隊のみを驀進させるやり方で五日でハイネに到達させる、おかげでセクサドル軍の輜重部隊は遥か後方に取り残されていた。
その前軍の司令部付きの武官たちもその快速を感動とともに味わっていた。
「なあ、もう今日の夕方にはハイネにつくぞ大したものだ」
「オレク、これはもともとカルマーン大公殿下の構想だった、残念だ殿下が倒られて」
カメロは声を落とすと同僚のオレクに返す。
「おいおい気をつけろ聞かれない様にしろよ?」
声をかけられた若い士官は薄い赤みを帯びた金髪に切れ長の一重の目をしていた、いくつかの異民族の血を混ぜ合わせたかのような特徴的な目をおせっかいな親友に向ける。
オレクは華美な装備に身を固めた若い男の姿を観ていた、その周囲を若い貴公子たちが固めている。
その華麗な若者こそセクサドル王国のアウスグライヒ=ホーエンヴァルト王子でテレーゼ派遣軍の名目上の総司令官だ、従軍経験もない若者だが王弟のカルマーン大公が急に倒れ政治的な成り行きで彼を総司令官に拝戴する事になった。
カメロ達のようなそれほど身分が高く無い者でもカルマーン大公がアウスグライヒ王子を評価していない事は知っている、カルマーン大公はそれを表に出す人物では無いが、王子があからさまにカルマーン大公を嫌っていたせいで、それが噂になってしまったらしい。
それだけカルマーン大公は優秀な人物と見なされていた。
カメロは優秀な軍務官僚として出征に加わっている、軍の土台を長年支えてきたカルマーン大公を誰よりも尊敬していた。
だが無神経なカメロも王子の機嫌を損ねると将来まずい事になる事はわかっている。
「気をつけるさ」
「俺たちは殿下のご機嫌とりで一緒にハイネ城に入るんだ、気をつけろよ?」
オレクは念を押すように忠告をかさねた、カメロは不本意ながらも憂鬱そうにうなずく。
セクサドル王国軍が目指すハイネ城市の北側にかつての王城ハイネ城が美しい威容を誇っている、その巨大な四本の大尖塔は世界に知られていた。
その王城の衣装部屋はかつて王家が使っていただけあって古風で威厳のある豪奢な創りだ、そんな部屋の中で呆れた様なテヘペロの叫び声が上がった。
「これが向こうから送ってきた衣装なの?晩餐会用のドレスだと思っていたわよ」
「そうですよね、私もそう思います♪」
テヘペロは横にいるジェリーを軽く睨んだが、彼女はどこ吹く風と流す。
晩餐会用のドレスも用意されていたが少々露出こそ過多だが流行のドレスとしては有りだ。
だが問題は三種類の魔術師の服が用意されていた事だ。
一つは一見するとどこかの魔術学校の女学生の制服を思わせる、女性が高等教育を受ける機会は大貴族ならばお抱えの家庭教師から、魔術の才能のある女性ならば専門知識を魔術学校で学ぶ機会がある。
おかげで女学生の存在そのものが希少だった。
それはハイネ魔術学園の制服に似ていたがテヘペロはそれから何かを感じていた、そしてついに答えを導き出す。
「あっ、これはアマリア魔術学院の制服だわ!」
「さすがシャルロッテ様です、わたくし気づきませんでした」
テヘペロはジェリーの言葉から本気の敬意を感じて軽く目をみはった。
「でもね今さら私が着ても・・・それに裾が膝下くらいまでしかないわよこれ?」
他の二着は更に問題だらけだ、偽魔術師が着ていそうな怪しい雰囲気を発散させる服装で、スカートの裾が更に短く全体的に微妙にいかがわしい。
これに関してはテヘペロの悪い予感が的中していた。
これを見ていると各地を放浪していた頃のピッポのインチキ学者の様な衣装を思い出す。
「これ晩餐会のドレスが一番ましだわ」
テヘペロはうんざりした様に嘆く。
「向こうの指定ではしかたがありませんよね」
ジェリーのさり気ない言葉になぜかびくりとなった。
「先生方お願いいたします」
続いてジェリーが控えていた衣装係の女官達に声をかけると、彼女達はテヘペロの周りに群がる、残された時間は僅かだ、彼女達の必死な表情にさすがのテヘペロも怯えたじろいだ。