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密偵の影

テヘペロはゆったりと湯船に首まで漬かる、湯に沈められた香料袋の自然な香りが鼻を優しく刺激する。

彼女に充てがわれた部屋はたんなる貴賓室では無い、寝室と浴室とリビングが一体となっている。


「ほんとさすがね」

思わず言葉が漏れる、かつてテレーゼの王城だった城の貴賓室だ、最高級の宿屋のスイートを越えている。


「シャルロッテ様およびですか?」

浴室のドアの向こうからジェリーの声が聞こえてくる、その声でくつろいだ気分が吹き飛んでしまった、彼女は浴室の中の音に気を配っていたらしい、そんな彼女につい独り言を聞かれてしまったからだ、どうにも落ち着けない。


「何もないわよ」

テヘペロの言葉に僅かに棘が混じる、湯船から立ち上がると豪華なタオルで体を拭った。

「あの、お手伝いいたしましょうか?」

ジェリーの言葉にどこか楽しげな響きを感じてテヘペロは眉を顰めた。

「だいじょうぶよ、気にしないで」

かるくお腹をさすると手早く肌着を着付けた、与えられたのは高級な素材の品々で予想していたより上品な造りでホットする、最後にゆったりとした豪華なナイトローブを身に纏った。


テヘペロが浴室から出て豪華なソファに体を沈める、するとジェリーが近づき手慣れた手付きで髪を整えてくれる、その自然な動きと技量にテヘペロは内心驚いた。

「貴女ほんとうに慣れているわね?」

ジェリーの手が止まる。

「わかりますか?昔名家のお嬢様に仕えていた事があったんです、でも魔術師の力に目覚めまして、両親は複雑そうでしたね」

ジェリーは軽やかに笑った。

「貴女の家そこそこ良いところね?」

「ええ両親とも貴族の庶子の出で、父はお役人、母は高級使用人をしてました」

「あら、私と似ているわね?」

「やっぱりシャルロッテ様は貴族の流れでしたか」

「ええ、叔父が貴族でその養女に・・」

テヘペロは急に気分が悪くなり眉を顰める、そして言葉が途切れた。

そんなテヘペロを心配げに見下ろしていたジェリーがかがむとのぞき込む様にテヘペロに顔を近づける。


「どうかされましたか?今日はお休みになさいますか?」


「ごめんなさいね大した事ないわ、そうね眠るかな」

ジェリーは壁ぎわに設けられた小さなカウンターに向かう、壁の小さな扉を開くとそこから小さな棚が現れた。

そこに幾つもの酒盃と酒瓶が並べられていた、彼女は小さな波瑠の杯を取り出し素早くワインを選ぶと杯に注いで持ってくる。


「シャルロッテ様どうぞこれを」

「ありがとうジェリー」

テヘペロは弱々しく微笑むと波瑠の杯を受け取り一気に飲み干した、高価なテレーゼワインの芳香が鼻をくすぐる。


そしてジェリーに寝室に案内されるように導かれると、テヘペロはそのまま素直にベッドに横になってしまった。

ジェリーは掛け布団をテヘペロにかけると魔術道具の照明を消した。


「ではお休みなさいませ」

暗闇の中から彼女の声が聞こえて来る、テヘペロは疲れていたのか強い眠気に襲われた。

「明日起こしにまいります」

ヒールの音が遠ざかると扉が閉じる音が聞こえる、そのままテヘペロは深い眠りに落ちて行った。






ハイネの北に城塞都市マルセランがある、その街の周囲は無数の篝火に照らされていた、アラティアの軍旗が林立し天幕が篝火にオレンジ色に照らされ立ち並ぶ。

その合い間を無数の兵士がせわしなく動き回っていた。

マルセランにアラティア軍の前軍が到着し、国境から退却してきたハイネ通商同盟軍を含め一万五千以上の大軍がマルセランの周囲に集結している。

明日の夜にアラティア軍の本軍が到着する予定だ。


グディムカル軍はこの街から北へ半日程の距離に五千程の部隊が街道を封鎖する形で展開していた。

その更に北に山地を越えてテレーゼ平原に侵攻してきたグディムカル軍が徐々に集結しつつあった、両軍ともいくつも威力偵察部隊を放ち哨戒網を広げながら、偵察部隊の間で小さな戦いが始まっている。


そんなマルセラン城市の郊外の森の中に二つの人影があった、闇に溶け込むような服装で身をつつみ茂みに潜んでいる。

森の中は暗く野営地の灯りが木々の隙間から射し込んでくるだけだ、だがこの位置ではアラティア軍の様子を観察するには不向きだ。


「そろそろのはずだ」

その声はささやく様に小さい。

「予定を過ぎている・・・」

もうひとりがつぶやく、そしてその声から僅かな焦りを感じさせる。

そして彼らの言葉は東エスタニアの言葉ではなかった、詳しい者ならば北方の言葉だと理解できたかもしれない。

やがて森の向こうから幾つか灯りが近づいて来る、それは数人の集団で灯りがマルセラン子爵軍の軍装を照らし出した、それはマルセラン軍の哨戒部隊だ。

彼らは森の中の狭い道を辿りながら二人の方向に向かって来る。

「来たぞ」


哨戒部隊はそのまま彼らが潜む茂みの近くを通り過ぎた、二人は安全を確認すると茂みから音もなく出てくる、そしてしばらく近くを調べはじめた。

「あったぞ、引き上げる」

二人は道に落ちていた黒い何かを見つけて拾った、それは焦げ茶色の油紙に包まれている、二人は道沿いには進まなかった、そのまま森の奥に向かって消えた。




そんな小さな一幕があったマルセランから北に約一日ほど、グリティン山脈の麓にグディムカル帝国軍の大本営の天幕が設けられ、周囲に無数の天幕が立ち並び篝火で煌々と照らし出されていた。

グディムカル帝国軍は別働隊によりグリティン山脈で遅滞戦を行っていたハイネ軍を撤退さた、すでに山を越え軍を展開させる事に成功していた。

もしハイネ軍が時間稼ぎに成功していたならば、テレーゼ平原への出口を連合軍に封鎖され侵攻は遥かに困難なものになっていただろう。

すでに南に防衛戦を張る別働隊を補強すべく先遣隊の一部は南下を始めている。

だがこちらからマルセランに集結しつつある連合軍を攻撃するにはまだ戦力が足りなかった。


その大本営の天幕はグディムカル帝国軍の中枢であり、皇帝トールバルトが座する移動する本営だ、金縁で飾られた飛龍の大軍旗が大本営の在処を示している。


夜もたいぶ更けていたが天幕の周囲は煌々と篝火で照らし出されて真昼の様に明るい。

その天幕の外に漆黒の甲冑で身を固めた威厳のある長身の男が佇んでいる、特に何かをするわけではなかい、その黒に金の装飾で飾られた略式の軍装で身を固めた人物は、グディムカル帝国皇帝トールバルトその人だ。


皇帝は会議が終わり外の空気を吸うために表に出てきた、そんな彼の周囲を若い騎士たちが固め、屈強の騎士たちがさらにその周囲を固めていた。

だが彼らは主君の束の間の休息を妨げない様に静かに侍っている。


若き皇帝は大きく息を吐いてから遥か南の空を睨んだ、南の地平線は日が沈んだ後の様に薄っすらと明かりを帯びていた。

「昨夜より明るくなったか、アラティア軍の前軍が到着したようだな」

その光はマルセランに野営する連合軍の篝火の光だ。

皇帝の言葉は誰に向けられたのかはっきりとはわからない、だからそれに答えようとする者が現れなかった、そして皇帝もそれを気にする様子も無い。



突然若い騎士の一人が驚きの声を上げる。

それは皇帝の側近候補の若者の一人帝国騎士のヴィゴだ、彼は背後のグリティン山脈を見上げていた、つられて何人かが彼の視線の先を追った。

彼らの背後に無数の星空があった、だがその星々はゆっくりと動いている、それは星では無かった蛇行する無数の光の粒がグリティン山脈を飾っていた、だが良く見ると動かない光の点の間を、光の粒子がゆっくりと動いていた。

他の者達もその美しさに感嘆の声を上げる。


すると近くに控えていた老将グラウン伯爵が口を開いた。

「空荷になった輜重部隊を夜の間にグディムバーグに戻しておるのだ、街道は狭くすれ違うのは困難、行軍の邪魔にならぬようにしておる」

皆その説明に納得したようだ、夜の移動は危険だが空荷ならばそれだけ危険も減る。


そこに本営の参謀士官の一人がやってくる。

「陛下、諜報部からの定時報告が纏まりました、本営にお越しください」


「わかった」

そして皆を見回して宣告した。

「解散、任務に戻れ」

皇帝はそのまま士官に続いて大本営の天幕に戻る、彼の背後で部下たちが慌ただしく動き始めた。

背後に付き従うのは副官とも言えるグラウン伯爵だけだ。


皇帝が執務室に戻ると皇帝の身の回りの世話をやく執事が控えていたが、彼らは主君を迎え畏まる。

そして先ほどの連絡士官は壁際で控えていた。

見ると簡易の執務机の上に報告書が幾つも分別されて積まれていた、多くは部隊の行動日報が占めている、あまり緊急性は無いがそれでも発生した小さな問題に留意する事が求めらた。

その中でも精霊通信による報告は緊急性が高かい事が多い、皇帝は真っ先に各地の諜報部隊からの報告に目を通しはじめる。


皇帝はマルセランからの報告に目を通した。

「マルセランにアラティア軍の前軍が入ったか、アラティア軍12400、ハイネ通商連盟軍3800か」


その多くは連合軍の動向が占めていたが、ある興味深い一報に興味を引き付けられる。

近くに待機していた副官のグラウンも主君の僅かな変化に気づいたが、何も言わずに待っていた。

皇帝はある報告書を手に取るとグラウンに差し出した、これは読めと言う意味で更に何かしらの意見を求められていた。


「ハッ!」

グラウンもその報告書を読み驚いた。


「連合軍の大本営に入り込むとは、どのような経緯でこうなったのか説明が不足していますな」

「精霊通信は情報量が少なすぎる、やむをえまいよ」

若き皇帝は低く笑った、主君の狼の様な精悍な貌にグラウンも目を細める。

「とはいえお飾りの大本営ではそれほど有益な情報は見込めませんな」


「だが名目上の総司令官で王族だ、最低限の報告はあろうさ」

皇帝はハイネ城の奥に引きこもる敵の総司令官を軽侮を込めて笑った、アウスグライヒ王子の情報は皇帝も把握している、そして敵の意図も露骨なまでに理解できる、戦の邪魔にならぬように豪奢な牢獄に押し込めるつもりなのだ。


「陛下、手繰(タグ)らせますか、情報収集に徹しますか?」

「戦況の鍵になる男ではないが、混乱させる事ぐらいはできるか」

皇帝は報告書の備考欄を読み何かに気づいた。

「これはハイネの魔術師ギルドにいた諜報員だな、どんな経緯で入り込めたのだ、だが独自の判断で勝手に動いたようだな」

皇帝は壁際の連絡士官を招いた、士官は素早く主君の前に立つ。


「この件について詳しく説明しろ」

士官はそれを予感していたのか淀みなく答える。

「かしこまりました、諜報員の多くは緊急時には精霊通信による連絡しか手段が無い場合があります、遠隔地の諜報員は独自の裁量権をもっておりますしそれに必要な教育を受けております。

彼女はハイネ評議会が派遣する顧問団の随員に入り込む事に成功したようです、こちらの許可をまたずに受けました、時間が無かったのでしょう」

「魔術師として入り込めたのか?」

「詳しい事は不明です、ハイネ城に入り支援要員との接触が困難になりました、大まかな方向性を命令する事は可能ですが、詳細は彼女に任せるしかありません」


「若い女だが、ハイネ魔術師ギルドからの報告はなかなか価値があった、機会を与えてやろう」

「では手繰(タグ)らせますか?」

そこでグラウンが主君の意志を伺う、これは連絡士官には許されない行為だ。


「連合軍を混乱させてみろ、お飾りの総司令部だが敵を混乱させる事ができれば儲けものだ」

そう言い放つと若き皇帝は豪快に笑う。






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