転移装置
北から戦雲迫るハイネ城は夜の空に篝火で煌々と照らし出され、そして城の四隅の巨大な尖塔は闇の中に深く沈んでいる。
その城の北東の巨大な尖塔は魔道師の塔と呼ばれておりその名は東エスタニア全土に轟いている、その塔の壁にトカゲの様に貼り付く人影があった。
石材の隙間に指をかけ僅かな出っ張りに足を乗せながら器用にスルスルと登って行く、すでに塔の屋根の丸いひさしが近いところにまで到達してた、もしここから足を踏みはずしたら命は無いだろう。
その人影は驚くべき事にハイネの下町の娘の様な姿をしている、そして彼女は若いと言うより少女だった。
その彼女を見守るように宙に浮かぶ黒い人影があった、全身を魔術師のローブで包んだ背の高い人物で、薄曇りの夜空を背景に宙に浮かぶ姿は巨大なコウモリの様に見えた。
「コッキー魔術をかけますか?」
宙に浮かぶ魔術師が壁を昇る少女に小声で声を掛けた。
「アゼルさん平気ですよ簡単です、それに落ちても平気なのです」
そこでコッキーの様子が急に変わった。
「アゼルさんここです!嫌な気配がしまスこの向こうに嫌な何かを感じます!」
コッキーが石壁を手の平でトントンと叩いた。
「コッキー壁を凍らせて静かに壊します」
「わかりました、結界は私が力ずくで壊します、このラッパで」
コッキーは首から下げた古風な祭りで使う大地のホルンに手で触れた、アゼルは疑うような視線でホルンを見たが何も言わずにコッキーに任せる事にした。
「わかりましたおまかせします、コッキー少しずれてください」
コッキーはするすると壁に張り付きながら横に動いた。
アゼルは複雑な魔術術式の構築を始めた、やがて膨大な精霊力が宙に浮かぶ魔術師に収束して行く。
「『砕かれしトロメアの凍てつく因果』」
それは厳かな詠唱と共に完成する。
絶対の冷気がアゼルの前に生まれた、塔の外壁の壁の一部が白色に変わる、そして小さな何かが砕ける音が無数に響き渡る。
アゼルは宙を漂うと壁に近づき手にしたワンドで壁を叩いた、すると白く変色した部分が砕け散り砂の様に音もなく崩壊して行く、それは煌めく光を残しながら流れ落ちる、白い砂はハイネの空に雪の様に舞った。
コッキーはするすると壁に空いた大穴に戻る。
「壁が冷たくなっているのです!」
「気を付けてください」
するとコッキーから巨大な精霊力が迸り集まりはじめた、アゼルは警戒して塔の壁から少し離れる。
コッキーの青いワンピースから現れたむき出しの手足が白銀色に変わると鈍く輝き始めた、そして壁に空いた大穴に手をかけて体を入れようとすると体が白く発光して動きが停まった。
「やっぱり見えない壁がジャマなのでス」
その言葉はこもった様に聞き取りにくかった。
細身の腰を穴の縁に乗せて座り胸から下げたホルンを手にした、アゼルはこれで演奏できるのか疑問に思い眼鏡の奥の瞳を訝しげに細める。
彼女は古風なホルンを唇につけた、厳かでどこか儀式じみた仕草だ、彼女の顔をアゼルからも見る事ができるがまだ人の姿を強く残していた。
やがて素朴な太い音色が響き渡る、だがそれは曲とは言い難い、ゆるやかに変化しその音は波打つ、アゼルはその音に刺激的な精霊力の力を感じ取る。
「これは!?」
アゼルは思わず言葉をもらしわずかに宙を滑りコッキーに近づいた。
そのホルンはベル達が骨董品屋で買ってきた大地母神メンヤの祭りで使われる大地のホルンだ、なかなかの骨董品だが神の器ではあり得ない。
これがコッキー本人の力なのであろうか?このような状況でアゼルはつい思索に溺れかけた。
コッキーが突然ホルンを吹き鳴らすのを止める、アゼルは直感が働いてコッキーから慌てて離れた、その直後に精霊力の爆発が生じた。
その力は素朴な大地のホルンから溢れ、見えない結界に鑑賞し爆発した、穴の奥が万雷を浴びたように光り輝いて蒼、赤、紫の光が乱舞し空を照らし出した、だが不思議と音は聞こえない。
「コワレましたヨ」
コッキーが戦闘態勢のまま塔の中に飛び込む、アゼルも彼女を支援すべく宙を滑り穴の口で待機に着いた。
部屋の中は青白い冷たい魔術道具の光に照らし出されている、その部屋に窓は無かった、窓の跡らしい漆喰で塗りつぶされた跡があるだけだ。
大きな円筒の部屋で豪華な木の机と椅子、壁際に分厚い蔵書を収めた本棚と魔術道具を並べた棚があるだけだ。
装飾とおぼしき物は無く壁に塔の絵を描いたタスペトリーが飾られていた。
そして執務机の近くに人の背丈ほどもある大きな装置が見える、コッキーにもアゼルにも用途は解らなかった。
コッキーはすぐに装置に興味を失いアゼルを振り返った。
「さッさと分捕ッてズラカリましょうアゼルさん、きっと気づかれていますヨ」
全身が白銀色に変異しかけたコッキーが叫んだ、その口調がいつもの彼女らしくアゼルはつい微笑んでしまう。
「ええ急ぎましょう、しかしここは宝箱ですね」
そう言いながらアゼルは壁際の蔵書を軽く調べただけで腰の物入れに収容して行く、だが残念ながら内容を吟味する時間は無かった。
その時アゼルは何か胸騒ぎを感じて滑るように壁の穴の近くに移動した、コッキーも何かを感じたのか姿勢を低めて戦いに備える。
部屋の中央の空間が僅かに揺らぐと、突然そこに長身の漆黒のローブ姿の魔術師が現れる。
その姿はかつて地下で戦った事のあるセザール=バシュレその人の姿だ、いやはたして人と呼べるかは知らないが。
そして右隣りに黒い靭やかな肢体を誇示するかのように漆黒の女が姿を現した。
二振りの曲刀を構え全身を黄金の絢爛豪華な装飾で飾り立て、エキゾチックで美しい容姿をしている。
そしてセザールの両脇に黒光りする金属の棒を編み込んだ様な人形が現れた、青白い光に包まれ四本の腕に剣と盾を構えている。
アゼルは金属の戦士に見覚えがあるが、女戦士に見覚えは無い、コッキーはそのどちらも見たことが無かった。
「なんですか、不愉快なオモチャなのです」
コッキーは汚い物でも見てしまったかの様な口調で馬鹿にした。
『久しぶりだナ、メンヤの下僕ヨ、まさかこちらに来ていたトハ、向こうは陽動であったカ』
「干物のおじいサン、お久しぶりなのです、お魚の干物は肥料になるのです」
だがセザールはコッキーの挑発に乗らなかった。
セザールは術式を更に重ねると針金の戦士を二体即座に呼び出す、四体の戦士は主人の四方を警戒しながら護りを固める。
『もう来たか、時間稼ぎも出来ぬのか!』
セザールが万感の軽侮をたたえて吐き捨てた。
その直後に部屋のドアが強い力で蹴りつけられると金属枠の頑丈な扉が紫色に煌めいた、続いて打撃が扉に加えられると極彩色のオーロラのように光が揺らめく。
「もう結界は壊れるのでス」
コッキーが叫ぶと全身を白銀色に輝かせながらセザールに襲いかかる、それを漆黒の女戦士の武器が受け止めた。
そして女戦士の必殺の斬撃をコッキーの魔銀の鱗が受ける、最高品質のスケールメールのように女戦士の剣先を滑らせ流した。
さすがの女戦士の眼が大きく見開かれた。
『姫君、そやつの体は魔銀で守られています、お気をつけられよ』
「こいつ姫君なのです?裸じゃないですかありえないのです」
ゴムの様に跳ねる敵の戦士の胸を見ながらコッキーは毒を吐いた。
『死せる姫ソダンキュラ姫だ、無礼は許されぬ地虫の娘よ』
「ミミズ扱いはゆるせないのです、オマエの体なんてどうせ虫食いなのですよ」
『無礼な!!』
激怒したセザールがところどころ骨がむき出しの干からびた手の平を向けると漆黒の槍が生じてコッキーに向かって飛翔する、かと思いきや青白く濡れ光るコッキーの爪がそれを砕き引き裂くと黒い霧となって消えた。
そこに死姫の斬撃がコッキーに襲いかかるが、それを紙一重で回避した、刃がコッキーの肌を滑る音が鳴る。
その時ついに扉の結界が耐えきれずに崩壊し光の粒子となって散る、セザールは部屋の大きな執務机の近くに後退した、彼を守るべく四体の針金戦士も動く。
だがそこは壁に囲まれ逃げ道は無いようにアゼルには思えた。
そしてついに扉が蹴り破られた瞬間、アゼルは下から凄まじい速さで塔の壁を駆け上る何かを感じた、それが一瞬で横を通り過ぎる。
何者か考える間は無かった、その直後に激しい金属音が鳴り響くと針金戦士の盾がベルのグラディウスを受け止めていた。
そして扉を蹴り倒してルディが部屋に飛び込んでくる、漆黒の大剣を死姫の背後から問答無用で叩き込む、だが死姫は見事な技量でもう片方の曲刀でいなし刃を滑らせて受け流す。
そして死姫は婀娜っぽい笑みを新しい敵に向けた、だがルディはすぐに一体の針金戦士の相手を強いられる。
「ゼザールお前に勝ち目はないぞ?だが逃げる事はできるのであろう?」
その声はどこからともなく聞こえてきた、その老いたどこか陽気な声は老魔術師のホンザだ。
それはルディが踏み込んできた入り口の向こうから聞こえてくる、そしてホンザの言葉の意味はここから去れと言っているに等しい。
『ほう私の魔術陣地の性質に気づいたか、いかにも我はどこにでも瞬時に移動することができる、お前達に我を倒す事はできぬ』
その時ルディが一体の針金戦士をその盾と武器ごと粉砕した、破片が飛び散るとそれが騒音を立て転がり落ちて瘴気に還る。
「奴は何か奥の手を持っているぞホンザどの」
ルディが一息つくと警告を発した。
ちょうど一体の針金戦士を倒したベルがゼザールに迫るがゼザールを守る一体の針金戦士がそれを阻む。
そして妖艶な死姫は変異が進んだコッキーと互角以上の戦いを見せている。
『お前達全員を相手どるのハ、我にしても困難、だがお前達が押し寄せてくるのも明白だった』
ゼザールはその朽ちた右手を執務机の側に置かれていた奇妙な装置に手をかける。
「全員退避!!」
セザールはルディが叫んだ瞬間に装置の上の小さな球体を握りしめた。
何かが揺れる音と共に装置を中心に何かが始まる、壁の穴の近くにいたアゼルは半透明の黒い球体の中に塔の上部ごと包まれるのを目撃した。
『お前達ヲまとめて魔界に落とすこれで終わりだ』
だが装置の側の床に銀色の小さな光が生まれた、床に落ちていた金属の破片が白銀色に輝きはじめたのだ。
ゼザールの眼窩の青い炎が動揺するかの様に揺らめいた。
『なんだこれは!?渡り石がなぜここに?』
ゼザールが驚愕の叫びをあげた、その次の瞬間にセザールの姿が消える、同時に彼が呼び出した眷属達も崩壊し瘴気に還っていった。
その時小さな白い何かがアゼルに駆け寄るとアゼルの胸に飛び込んだ、それはアゼルの相棒小さな白い猿のエリザベスだ。
「エリザベス?なぜ貴女がここに?」
アゼルが驚きのあまり叫ぶ、彼から平素の冷静さが失われた。
エリザは古びた廃屋の魔術陣地の中で彼らの帰りを待っているはすだ、そのエリザがなぜここに?
「ルディガー殿、まずいぞ空間が転移しようとしている!!」
狼狽したホンザの声と共にホンザとアマンダが部屋に慌てて飛び込んで来る、眼の前の敵が消滅し呆然としていたベルとコッキーも異変に気づいた。
「まずい精霊力が足りない」
ベルが剣をしまうと塔の壁の穴に走ると外を見た。
「閉じ込められたぞ、結界だ!!」
「たいへんナノデスヨー」
見る間にコッキーの変異が解除されて行く、彼女はなかば混乱し半泣きで奇妙な踊りを踊りはじめた。
「これは何でしょうかルディガー様?」
豪胆なアマンダの声が震えていた、そして謎の装置の異様な音は高まる、そして床の光り輝く金属は閃光を放ち始めた。
何か重い揺れと共にアゼルの体が軽くなったそして上も下もわからなくなる、そして穴の外の景色が白一色に変わる。
『転移次元がくるった、なんたる事だ』
遠くから木霊の様なゼザールの激怒の叫びが聞こえてきた、その直後にアゼルの意識は途絶えた。




