深き沼の底からの嘲笑
ルーベルト公子は私書箱にカミラ姫からの手紙をしまうと滑らかな黒塗りの蓋を閉じた。
そしてカミラ姫に手紙を書きたくなっていた自分に気づく、だが先週送ったばかりの手紙の返事はまだ還ってこない、アラティアの王都ノイクロスターまで急がせても片道三日もかかるのだ。
ちょうど部屋の外が騒がしくなる、ルーベルトの私的な空間は外部から隔離されていた、訪れる者はすべて前室を通過しなければならない、そこで何かが起きている、だが物騒な物音が聞こえるわけではない、何者かが言い争う気配がする。
部屋の片隅に控えていた執事達がお互い顔を見合わせると責任者の執事が一人で前室に向かった、様子を確認するためだろう。
やがて幾分顔を紅潮させた壮年の男が入室してくる、背の高い男で大公の飲み友達でいかがわしい遊びを助けていると噂される男だ。
男は大公付きの執事で尊大な男なのでルーベルト付きの者達に密かに嫌われている、そしてその後ろから先程の執事も部屋に入ってきた。
大公付きの執事は慇懃な態度で口上を述べた。
「ルーベルト様、お父上がお話されたいと申されております、今から私がご案内いたしますのでご準備を」
ルーベルトは眉を潜めた、父を大公殿下とよばない意味は、公的な面談ではなく私的な面会を求めていると言う意味になる、行き先は謁見室ではなく大公の私室であろう。
そして父でありエルニア大公であるセイクリッドの要求である以上、要請であってもそれは命令に等しかった。
「すぐに向かう、隣室で待て」
「畏まりました」
大公付きの執事は一礼すると下がる、執事長は部下に次々に命令を発し始めた、すると一人が急ぎ足で部屋から出て行くのが見える。
ルーベルトはその男は母のテオドーラ大公妃の元に向かうのだと察した、大公からの接触があった場合に母の元に通報が行くようになっている。
だれもそれを言わないが、ルーベルトにはそれがわかっていた、そしてため息を吐いた。
やがて執事達が集まってくる、非公式の面談とは言え最低限の準備が必要なのだ、彼らは略装を携え主人の周りに集まる。
「さて父上は何の用だろうか?」
部下の仕事を見守っていた執事長が進み出た。
「申しわけありません殿下、大公様が気分転換によもやま話をしたいからと、要領を得ぬ話でございます」
執務に忠実な男の言葉から、彼が心底申し訳ないと感じているとルーベルトは察する、先程の騒ぎは大公付きの男と、窓口の執事と警備担当者との間で口論が起きたのだろう。
その間に簡易な正装に着替え終わったルーベルトは隣室に向かう、そこに先程の大公付きの執事が若干苛つきながら待っていた。
さすがのルーベルトも男の態度を不快と感じたが、公子付きの執事たちの顔の厳しさにかえって冷静になる。
「案内せよ」
自分でも信じられない程冷静な声が出た。
「大公殿下は碧玉の間でお持ちです、ご案内いたします」
碧玉の間は大公が内々の客人を応接する部屋なのでそれに僅かに違和感を感じたが、それでもルーベルトは男に案内されながら父の待つ部屋に向かうことになる。
アウデンリート城は拡張に継ぐ拡張で複雑奇怪な形をしていた、いくつかの城郭と城郭が継ぎ足されそれを廊下が連結していた、廊下は複数層の建造物で城の外郭を兼ねている、そして郭同士の仕切りを兼ねていた。
淡いオレンジ色の魔術道具の光に暗い廊下が照らし出される、ルーベルトは階段を上がり下がりを繰り返しながら進んだ、先頭を進むのは大公付きの執事だ、その後ろからルーベルトがその後ろに二人の公子付きの執事が従う。
誰も声を発する者はいない、足音だけが鳴り響き石の壁に反射する。
そして誰もすれ違う者もいない、黄泉の国への通路を進んでいる様な錯覚を感じ思わず声を発した。
「いったい、いつつくのだ?」
大公付きの執事は驚いた様に振り返ったがすぐに表情を消すとうっそりと答える。
「まもなくでございます」
いつの間にか周囲の壁の様式が変わっている、それで既に大公宮の中に居ることがわかった、碧玉の間はすぐそこだ。
すぐ先の通路を曲がると正面に重厚な革張りの扉が姿を現した、扉の前に二人の衛兵と年配の執事が待っていた、衛兵はルーベルトを見て最敬礼をした。
真ん中の年配の執事が一礼すると口上を述べた。
「殿下、大公様は中でお待ちです」
「我らは隣の控室でお待ちいたします」
背後の公子付きの若い執事がささやく、それにうなずくと開かれた扉を通り部屋の中に進んだ。
部屋の内部は碧玉の間の名とは異なり、東エスタニア風の重厚な調度品で整えられ、落ち着いた配色の趣味の良い部屋だ、だが所々に西エスタニアの影響を受けている。
その正面の豪華な革張りのソファに父であるエルニア大公セイクリッド=イスタリア=アウデンリートが深く腰を降ろしていた、大公の姿は夜着に豪華なローブを羽織っただけだ、略装とはいえルーベルトより遥かにくだけた姿だ。
そして金の酒盃を右手に掴んで足を組んでいる。
大公は僅かに濁った眼を息子に向ける、だがその眼は冷たく乾いている。
兄のルディガーに向ける憎しみと恐怖の眼と違う無関心さが、幼い頃のルーベルトの心を騒がせたものだが、今はもう何も感じる事はなかった。
「父上、参りました」
背後で扉が静かに閉じられる音が聞こえる。
「まあ座れ」
セイクリッドはいつもの鷹揚さを装った態度で応じた、だがルーベルトは内心驚き警戒する、父の態度に浮き立つ様な機嫌のよさが秘められていたからだ、わずかに嫌な予感がする。
心の動揺を押さえて大公の対面の豪華な革張りのソファに腰を降ろした。
すると背後の控室の扉が開く音が聞こえると、金属が奏でる繊細な音と足音が聞こえてきた、執事が茶か酒を持ってきたとして気にも留めなかった。
だが父がなぜか破顔したので訝しんだ。
すると視界の隅に青い布地が飛び込んでくる、それは女性の薄地の夜着の裾だったのでそれにルーベルトは驚愕した。
城には下働きの女達が数多く勤めていた、その多くは洗濯女や掃除婦で、大公妃宮や後宮には裕福な平民や下級貴族の若い子女が勤めている。
だがこの様な場所で働く女は存在しない、まったく例外がなかったわけでは無いが普通はありえない事なのだ。
政治的にお手つき目当てで子女が送り込まれる事を警戒し、女性は女性の貴賓の接待以外に用いられる事は無い、ルーベルトは混乱した。
「ケラよお前もそこに座れ」
それに構わずセイクリッドは満面の笑みで女に語りかけた。
ルーベルトは非難を込めた眼で父を見てから女を見上げる、そして今度こそ驚き何も考える事ができなくなった。
女の髪は長い白銀で肌の色は薄く日に焼けていた、細い顎と切れ長の目が印象的な繊細な美貌、齢二十歳ほどに見えた、やがてルーベルトの視線を感じたのがこちらを見下ろした。
御伽噺の妖精を思わせるほど線が細く儚げな美貌、彼女の深緑の瞳は澄んで宝石の様に美しい、だが瞳は何も映してはいない、それがルーベルとの心を騒がせた。
とても人とは思えなかった、ふと彼女の耳を見た、彼女の耳の先がナイフの刃の様に長く尖っている、驚愕して眼をしばたかせて見詰めたが彼女の耳はごく普通の人の耳だ。
彼女の美貌があまりにも衝撃的であった為の錯乱だろうか、ルーベルトは気の迷いとしてそれを振り払う。
するとその女性がわずかに顔を緩めて微笑む、それは無機質の人形に命が吹き込まれた様だ。
この世の者とは思えない微笑みにルーベルトは息を呑んだ、そしてこの女性は何者なのかすばやく思考を巡らした。
エルニアの上流階級にこのような女性は存在しない、美貌で知られる誰とも合わなかった、そしてエルニアに流れ着いた漂着船から救出された麗人の話を思い出す。
「父上、まさか!?」
「そうだ、エルニアに漂着した異国の貴婦人だ、余がケライノーと名付けた、ケラで良い」
上機嫌で笑うとセイクリッドはねっとりとした視線を隣のソファーに腰掛けた異邦の麗人に向けた。
ルーベルトは父親の非常識な行いに驚愕した、母上や宰相は何をしているのだろうか。
そして改めて異邦の麗人を見ると彼女は恥ずかしげに少し俯いている。
漂着してこのような場所に引きずり出された彼女に同情したが、彼女の薄地の絹のガウンに眼が吸い寄せられた、彼女の完璧な肢体の影が僅かに見て取れる、そしてルーベルトは考えたくもない可能性に気づいて父を見る、セイクリッドは濁った眼を異邦の麗人に向けルーベルトの変化を見落としていた。
異邦の麗人が伏せた顔を少しずつ顔を上げてゆく、ルーベルトはそれに眼を吸い寄せられた。
ついに彼女はまっすぐルーベルトを見た、その眼に僅かに涙が浮いている、ルーベルトの魂はそれに飲み込まれた。
芳しい芳香がルーベルトの鼻を突いた、どんな高級な香水も遥かに及ばない至高の芳香だった。
異邦の麗人の口が感情を読めない神秘的な微笑みを描く、ルーベルトの魂はこの瞬間彼女に恋に落ちていた。
この時ルーベルとは気が付かなかった、父セイクリッドが歪んだ荒廃した笑みを浮かべている事を。
それはたとえるならば腐敗した沼の瘴気の様な笑いだった。