ダールグリュンの姫君
アラティア王国は北と東を東方大絶海に囲まれ、南側もベラール湾でエルニアと隔てられていた、王国の脅威はいつも西からやってくる、王都ノイクロスターの最後の守りクロスター城が王都の西を守るように睥睨していた、その巨大な要塞はかがり火で煌々と照らし出され地に伏せた赤い巨竜の様に見える。
その王都を囲む丘の上の白亜の邸宅が威容を誇っていた、それはダールグリュン公爵家の邸宅で、先代の数奇者の当主が御伽話の妖精の城をイメージして建てさせた邸宅だ。
丘の上から見下ろす王都の夜景は魔術陣のように美しかった。
その白亜の城の窓から王都を見下ろす一人の美しい貴婦人がいた、彼女はダールグリュン家の姫君カミラだ。
「カミラ様、そろそろよろしいでしょうか、お体が冷えます」
背後から落ち着いた良く通る声が呼びかけてくる、自分に浸って夜景に魅入っていたカミラは我に還った。
彼女に声をかけたのはダールグリュン公爵家の筆頭侍女長のアーデルハイド夫人だ。
アーデルハイド夫人の後ろに控えた侍女が真紅の室内用のガウンを夫人に手渡す、夫人はそれをカミラの背後から着せかける。
カミラは長身のアーデルハイド夫人より背が低い、だが夫人の背後に控える侍女と較べて小柄では無かった。
豪華な真紅のガウンはカミラの白い肌の色と濃い赤銅味のかかった豪華な金髪に良く似合っている、そしてカミラの美貌はエルニア大公妃のテオドーラとどこか面影が似ていた。
威厳のある美姫だが、彼女の人柄ゆえか口元と目元が柔らかくそれが彼女の印象を柔らげ、親しみやすいものに変えていた、そして彼女の碧眼は明るくなぜか南国の空の色を思わせる。
だがアラティア王家は政略結婚でグディムカル帝国の北方の国々と縁戚関係を結んでいた、彼女には遠く北の海賊王の血が流れている。
カミラは着心地の良いガウンに満足して微笑む、そして夫人の背後にいる見慣れない侍女に気づいた。
「貴女は新しい人ね」
アーデルハイド夫人は過ちに気づいた。
「失礼いたしました紹介が遅れました、この者は本日から姫様のお側に新しく使えるものでございます、名はサンナ=クルームでございます」
小柄な侍女が一歩前に進みでる。
「私がご紹介に預かりましたサンナでございます、精一杯お努めいたします」
丁寧なお辞儀だが同時にサンナの緊張が伝わってくる、カミラは薄く微笑んだ。
「よろしくねサンナ」
「恐縮でございます姫様」
サンナも下級の貴族か豊かな平民の娘だろう、その仕草や言葉からカミラは察した、そして親しくなる頃にはこの娘もいなくなる、カミラに使える侍女の入れ替わりは激しい。
カミラの顔から微笑みが消え、達観した様な笑みに変わる。
ちょうど顔を上げたサンナはカミラの微笑みに驚いて魅了されように見詰めてしまっている。
「サンナ貴女は下がりなさい」
アーデルハイド夫人の冷静な声にサンナは失態に気づいて慌てて顔を引き締めた、わずかに頬を赤く染めている、サンナは一礼するとそのまま部屋から下がって行った。
そして夫人はため息を吐いた。
「カミラ様、私の教育がいたらず失礼いたしました」
夫人の声も表情も硬い、貴婦人の顔を凝視するなど使用人としては失格だ。
「いいのよ、みんな初めは慣れていませんわ」
夫人は僅かに表情を緩めた。
「ご寛恕感謝いたします」
「もう新しい娘が来たのね、もっと長く使えてくださる方はいないのかしら?」
夫人と二人になったカミラの口調は少し砕けた物に変わっていた。
「我らダールグリュンの者達はお嬢様が小さい頃から使えております」
「そうなんだけど、外から来た娘は入れ替わりが激しくてもう顔と名前も合わないの、いつのまにか居なくなった娘も何人もいるわ」
カミラの言葉は僅かに拗ねる様に聞こえた、まるでカミラが少し幼くなった様に。
夫人は顔を綻ばせ微笑んだ、冷たい無機的で知的な夫人の美貌に血が通う。
「ここに来る娘達の多くは、礼節や礼儀の修養が目的の者が多くいます、私共のようなそれを責務としている者は僅かでございます」
「わかっているわ、でも私と身分が近い娘はアラティアにほとんどいない・・・」
アーデルハイド夫人は何か名案に気づいた。
「カミラ様、ルーベルト殿下へお手紙をお書きになられてはいかがでしょう?」
だがカミラの顔色はすぐれない、夫人が少し慌て始める。
「違うわ、だって戦争が起きているのに、呑気にルーベルト様に手紙を書いていて良いのかって」
夫人は安心したように、むしろ誇らしげに胸をはった。
「お嬢様のお気遣いは間違っておりません、ですがこれはエルニアとの平和に繋がることでございます」
「そうね、そうだわ、でも私の気持ちに偽りはない、直接お会いした事はありませんが、手紙から殿下のお人柄が伝わってきますの、どんな方かしら?」
「立派な誠実な御方と漏れ聞いております、お嬢様」
何度同じ話をしたことだろうか、だがそれを責める夫人では無かった。
「でも、私は本当はどう思われているのかしら?」
「お嬢様を好きにならない殿方はおりません」
カミラは少し頬を染める、そしてくるりと窓の方を向いてしまった。
「私の肖像画をルーベルト様に送ったらしいのよ、でも私はそれを見たことが無くて」
「我が国の評判の絵師に描かせました、大丈夫でございますお嬢様」
「違うのよアーデル、ものすごく美化しているに決まっているわ、だから恥ずかしくて見れなかったのよ」
アーデルハイド夫人が少し吹き出しそうになる、だが夫人の目は温かい。
「絵師は何も飾る必要は無いと、姫様のお心を描いたと言っておりました、姫様のお心は殿下に伝わっておりましょう」
「ならいいのですが・・・今からルーベルト様に手紙を書きます」
これで一安心した夫人は下がる事に決めた様だ。
「では私はこれで下がらせていただきます、くれぐれを根を詰められませぬよう」
「解っているわ」
夫人は一礼するとカミラの私室から下がって行く、これで部屋の中はカミラ一人になった、彼女は豪華な白い椅子に座ると漆黒の筆記道具箱の蓋を開く。
そのまま新しい羊皮紙を机の上に広げてから窓の外をながめる、その夜の空の彼方は南のエルニアの空につながっている。