記憶の深淵
エミル=ヴラフが経営する魔術道具屋『風の精霊』の売り場の真ん中で美しき真紅の淑女がたたずんでいる。
店内の壁際の大きな陳列棚に触媒の小さな箱が無数に並べられ、天井から得体の知れない動物の干物や薬草の束が吊り下げられている。
淑女は吊るされたコウモリの干物を見つけ僅かな憐憫の表情を浮かべる、そして淑女は静かに周囲の陳列棚を見回す。
「これだけあれば魔力を節約できますわ」
店主のエミルはそのあいだ彼女に魅入られたように彼女を見詰めていた、もし観察力のある者なら男の瞳の中に恐怖の感情を読み取る事ができるかもしれない、彫像の様に店主は声一つ立てることなく立ち呆けている。
「ここを隔離します、こんなところで大きな力を使うと気づく者がいるでしょう」
美しき真紅の淑女は哀れな店主の前に更に一歩近づいた、次の瞬間の事だ巨大な力が室内を巡ると溢れかえりあっという間に消えた。
淑女は魔界の力を己に収束すると瞬時に術式を構築する、窓の外が夜の闇に変わり妖しい妖光が煌めいた、だが彼女はどこか不満そうだ。
「月の配置が悪い、だいぶ効率が落ちてきている、詠唱が必要かしら?」
静かに詠うように目の前の男に語りかけた、だがはたして彼女の言葉をエミルは理解できたのだろうか。
右手の青白い嫋な指を顔の前に立て真紅の鋭い爪に口付けをする、そして真っ赤な軟体動物の様な舌で絡みとるように指先を舐める。
微笑むとそのまま指先をエミルの頬に近づける。
「ふう」
真紅の淑女がため息をつく、彼女の身体から漆黒の瘴気が噴き出す、それは物質化し黒い蛇の様に絡み合い、右腕を巻くように昇る、やがて人差し指にからみつくと真紅の爪に吸収されていく。
しだいに淑女の爪はタールのような黒色に変わる、やがて爪は生き物の様に蠢き始めた。
淑女はその指先をエミルの頬に触れた、爪は黒い粘菌の様に不定形にうごめきながらエミルの頬に貼り付く。
不気味な黒い物体はうごめきながらエミルの顔の側面に移動していった、その向かう先にエミルの耳がある。
エミルは目を見開いたまま微動だにしない、だがその瞳に確かな恐怖の色があった、だが彼は声を発する事も動くこともできなかった。
やがて黒い物体はエミルの右の耳に到達すると耳の穴に潜り込んだ、やがてエミルは僅かに身体を震わせた。
真紅の淑女は爪が無くなった人指し指を見詰めた、だが爪は一向に再生される気配がない。
「これは少し危険だけど」
そう独り言をこぼすがエミルの瞳から意思の光が消えている、そして再び膨大な魔界の力を呼び出し収束させると瞬時に術式を構築してみせる。
『私の言葉を聞いたら、その時の情景を思い出しなさい、理解できたらうなずいて言葉はいらない』
彼女の声はどこから発せられるのかわからなかった、部屋のあらゆる場所から聞こえてくる。
エミルはのろのろとうなずいた。
『黒い長髪の女と小さな金髪の娘達がここに来た日の事を思い出しなさい、貴方が金属の屑を売ったところから思い出しなさい』
彼女の術は対象の過去の記憶を光景として捉える事ができるのだ。
エミルの視界の端でコッキーが錆びた金属の塊を物欲しそうに惚けた表情で見つめていた、それを彼女は傍観者の視点で見ている、だがエミルの注意は黒い長髪の娘に向けられていた。
しばらくして彼女は独り言をつぶやいた、だがその言葉は彼女の口から出た言葉だった。
「よほど強く印象に残ってるのね、たしかにアイツラに間違いないけど蛇娘の様子が変、この金属の塊が神器なのね」
やがてエミルは残骸を20アルビンで彼らに売り渡す。
そして彼女は頭を横に振った。
「この男は注意力や観察力に劣ります、戦いにはまったく向かない、もっと早くこうするべきでした、でもアイツラも金銭感覚がずれているわ」
やがて記憶の中の彼らは店から去ってゆく、そこで記憶の中の光景が中断される。
もしこのまま続けていたらまた違った光景を見る事ができただろうが。
『これは大神殿の地下から発掘されたと聞いています、間違いないですね?この話は他の誰かに洩らしているのかしら?』
エミルは身体を震わせた、それを見て淑女は眉をひそめた。
『思い出せ!』
その命令にエミルは鞭で打たれた様に身体を震わせる。
どこかの緑豊かな公園の中を歩く黒い長髪の娘の背中が浮かび上がった、その娘はあの使用人のドレスを身に纏っていた、この娘が神々の眷属の一人だと確信する。
エミルは隠蔽の術を見破られ娘の恫喝に屈しその神器の出処を娘に話していたのだ。
「隠していたのね」
真紅の淑女は呆れた、エミルは失態をセザール=バシュレ魔術研究所と魔導師の塔に隠していた、その時エミルの記憶の底に別の記憶の断片を探り当てる。
『今の・・・思い出しなさい』
それは神の器に繋がりのある記憶の断片だった、それを大海の様なエミルの記憶の底から探り当てると力ずくで呼び起こした、本人すら忘れていた記憶の断片をエミルの記憶の底から引きずり出したのだ。
エミルが白目を向き奥歯を歯ぎしりする音が聞こえてくる。
「深い、さすがにきつい」
彼女もその美貌を歪める。
不敵な笑みを浮かべながらエミルを見下ろしていた恐ろしい娘の姿が消えた、そして机の上に並べられた発掘され無価値と判断された金属のトランペットと塊と、数本の黒ずんだダガーの光景に変わる。
報酬代わりに潰されたトランペットがエミルに下げ渡された時の情景だ、その記憶の中のエミルの意識はトランペットに向いている。
「何かしら?」
だが彼女の視点は数本の黒ずんだダガーに釘付けになった。
「この男の意識に僅かに干渉している」
それは手の平に乗る程度の黒い刀身のダガーで、傷だらけで汚れていて一見すると価値が無さそうに見える。
「これは、まさか渡り石!?」
淑女の声は彼女らしくもなく驚きに震えた。
やがて何者かの声が聞こえてくる、ダガーは古代の大地母神の祭具であると、また魔術道具でもなく精霊変性物質でも無いと語る。
トランペットの様式は新しいものでピストンバルブがある事から古くても100年以内と説明を受けた、これもまた魔術道具でもなく精霊変性物質でも無かった、外部から何らかの理由で持ち込まれたもので価値は低いと説明される。
そしてトランペットだけが無償でエミルに下げ渡される。
「呆れたわ、でも人がこれに気づくのは無理、もっと早くこうすべきだった」
エミルは白目を剥いて棒立ちになっている。
『もうよろしい』
エミルはふらつくと力なく床に音を立てて倒れ伏した。
「こんな事してられない、渡り石の行方も追わないと」
その直後に窓の外が午後の日差しの明るさに変わると、街路の雑踏の音が店の中に流れ込んできた。
「そうだ役に立つかわからないけど、あなたにはこのまま手札になってもらうわ」
彼女はもはや男を見ようともしない爪が消えた指先を見詰めている。
そして修道女のベールを下ろすと扉に向かった、ガラスのドアベルが美しい音色を奏でると修道女はそのまま魔術街に出ていってしまった。
店の真ん中で意識を失い倒れたエミルが残されていた。