憤怒
ハイネ旧市街を囲む大城壁の南大門に隣接して、広大なコステロ商会の施設が集まる一角があった、赤煉瓦の塀に囲まれた敷地の中に倉庫が立ち並び、正門の側に真新しい三階立ての魔術会館があった。
この建物も最近流行りの赤煉瓦で作られていた。
その二階に攻撃魔術道具研究室があった、広い部屋の壁に本棚が立ち並び、壁の白い漆喰がまったく見えないほどだ、部屋の真ん中に長机が幾つも並べられ、上に得体の知れない機材と工具がひしめくように並べられている。
魔術師達は昼休みから戻ってきたばかりで、自分の席でくつろぐ者や仲間と雑談を楽しんでいた、ハイネで異変が相次いで発生し、北から戦火が迫りつつある街の住人とは思えない程のんびりとしている、これが魔術師と言う人種なのかもしれないが。
「みなさまこんにちわ!」
そこに突然艶やかな女の美声が響き渡る、部屋にいた魔術師達はギョッとして思わず声の主の方を見た。
声の主は期待通りの反応に満足したのか、少し厚めの口の端をかすかに持ち上げた。
女はその妖艶な声にふさわしい豊満な美女だ、ゆったりとした魔術師のローブをまとい個性的なつば広の三角帽を被っていた、彼女は女魔術師のテヘペロだった。
彼女はゆったりと部屋に入ってくると部屋の中をみまわす。
「バイヤボーナ室長はいないのかしら?最後に挨拶ぐらいしなきゃと思ったのに」
魔術師達はヒソヒソと話をしはじめたが壮年の魔術師が代表して答える。
「デートリンゲンさん、室長は先程館長に呼び出されました」
「あらら、いろいろ手続きしてたら行違いになったみたいね、少し待たせて頂いて良いかしら?」
「デートリンゲンさん貴女の席はそちらです」
若い魔術師が壁際を指し示す、そこに小さな小綺麗なテーブルと真新しい椅子がある。
「ありがと、少し待たせてもらうわ」
テヘペロは若い魔術師にウインクをすると若者の顔が少し赤くなる、そして敵意の籠もった刺激的な視線がテヘペロの全身に突き刺さった。
それはいつもの事だった、僅かな優越感を感じると小馬鹿にしたように小さく鼻で笑った、テヘペロはその椅子に腰掛ける。
好奇心の籠もった視線を感じながらテヘペロはしばらく待つことにした。
しばらくすると荒々しい足音が近づいてくる、部屋の中の空気が変わる、女魔術師の誰かが小声で罵るのが聞こえてきた。
そこにササラ=バイヤボーナ室長が研究室に荒々しく入ってきた、そして部屋の中を見渡してテヘペロの姿に気がつくと口を開けたまま固まる。
テヘペロはすくっと席から立ち上がった。
「バイヤボーナ様おじゃましております」
そう言うと丁寧な淑女の礼をとった。
「なぜ貴女がここに?」
ササラの声はかすれ僅かに震えていた。
「あら私ここの配属でしたのよ?ご挨拶に来たとして何かおかしな事があるのかしら?」
「なぜ貴女が!?」
「館長からお話を聞いたのではありませんか?」
「聞いているわ、でもなぜ貴女なの?」
テヘペロはササラの言いたいことが理解できたのでわざとらしく肩をすくめてみせる。
「ハイネ評議会と魔術師ギルドから指名があったのよ、異議があるならそちらへどうぞ」
ササラは手を固く握り締めている。
「みんなそろったようね」
テヘペロは周囲を見渡した。
「せっかくコステロ商会に採用して頂きましたが、いろいろな事情からここでお勤めする事ができなくなりましたの」
テヘペロの斜め後ろにいた初老の魔術師の視線がテヘペロの全身を舐めるようにさまよう、それに気づいたササラの顔に怒りの色が差す、そこでテヘペロの言葉が途切れて僅かに小首を傾けた。
「私からお話します」
ササラの声は押し殺したような低い声だ、テヘペロは何かに気づいた様な顔を一瞬すると背後を見た、そして向き直った時に彼女は薄笑いを浮かべている。
「皆さんディートリンゲン様は、この度ハイネ評議会から連合軍総司令部に派遣される顧問団に参加する事になりました、残念ですがディートリンゲン様は本日付けで退職される事になりました」
ササラは必死に感情をコントロールしている。
ハイネ評議会から連合軍総司令部に派遣される顧問団のメンバーに選ばれるなら、それは大変な名誉な事で出世の糸口になるはずだ。
部屋の中にざわめきが沸き起こると、敵意を込めた視線がテヘペロの全身を刺す、だがそれは嫉妬と諦めに似た感情に変わって行った。
テヘペロはそこでゆっくりと室内を見渡す。
「私も驚いているわ」
そして先程の若い魔術師を見つめるとササラの視線が背中を焼いた。
「せっかく席を用意してもらったけど、無駄になったわね」
そこでため息をついた。
「私も忙しいのでこれで失礼するわ」
軽く手をふるとそのままゆったりと部屋から出てゆく、誰も声をかける者はいない。
「せっかく仕事が見つかったけど、しょうがないわね」
ぶつぶつと独り言を言いながらテヘペロは階段をエントランスホールに降りる。
外に出ると頭の後ろに嫌な視線を感じる、ちりちりと焼けるような視線だ、そちらをゆっくりと振り返ると二階の研究室の窓からガラス越しにササラがこちらを見下ろしていた。
その憎悪すら感じさせる視線を受けて、テヘペロは朗らかなまでの笑みを返した。
彼女の顔が醜く怒りに歪んだ、窓ガラス越しにすらそれがわかる。
「うわっ、いやねえここまで憎まれる様な事したかしら?」
そのまま石の階段をおりると正門に向かった、するとまた何者かの視線を背中に感じた、感情の伴わない冷たい好奇心の様な視線だ。
気になったのでそちらを眺めると敷地の奥に小さな森が見えた、その向うに白い邸宅の屋根が見える。
先日コステロ商会の別邸の使用人ポーラがその森から出てきた事を思い出した、興味が湧いたが寒気を感じ震え上がる。
「危険だわ近づかない方がいいわね、さっさと帰るわよ」
また独り言をつぶやきながら足を早める。
森の中の邸宅の二階の窓のカーテンが僅かに動いた、リビングの窓のカーテンの隙間から外を眺めていたドロシーの背後に忽然と白いドレスの少女が現れる。
「帰っていたのね、ドロシーどうしたの何やっているの?」
白いドレスの少女は人形の様に美しい、腰のあたりまで薄い白味がかかった波打つ金髪を伸ばしていた、そして少女の瞳は血をたらした様に赤い。
「エルマ出てきたのね」
エルマを振り返ったその女性は聖霊教の修道女の全身を覆う白いローブをまとっていた、顔は黒いサッシュのベールで隠している。
だがそのベールの奥に爛々と輝く真紅の瞳が燃えていた。
「魔術陣地の中に帰りなさい」
「誰か外にいるの?ドロシー」
「少し気になっただけ、強い魔術師がいた、さあ戻る」
「少し退屈したわ、私も外に出たいわよ」
ドロシーは少し考え込んだ。
「もっと落ち着いたら、遊びに行きましょう」
「いつになるのドロシー?」
「わからないわ・・・」
「何よ、自分はいつも好き勝手に歩き回っているのに!」
エルマがドロシーの修道女のローブの裾を掴んで強く引っ張った、見かけは小さな子供だが闇妖精の眷属だ、人を引き裂く剛力の持ち主なのだ。
ドロシーも剛力の持ち主だがローブはただの布に過ぎなかった、ドロシーが抵抗すると布地が悲鳴を上げて裂ける、ドロシーは慌てて力を抜いたが修道女のローブが外れてドロシーの半身が顕になってしまった。
「何よそのかっこ?」
エルマは眼を丸くしてドロシーの姿に固まった。
ドロシーは黒い半透明のメッシュ状の薄絹で全身をおおっていたのだ、その下には何も身に着けていない、その上から修道女のローブを纏っていただけだった。
エルマは見てはいけない何かを見てしまった、知ってはいけない何かを知ってしまったような、それに戦慄した。
「あ、あの・・・エルヴィスさんのところにいたの?」
ドロシーが顔をエルマに近づける、ベールの奥で真紅の瞳が燃えている、その瞳がエルマの身体を縛る、そしてエルマの魂を握りつぶすかのような威圧が押し寄せた。
エルマは身体を動かす事ができなかった、ただ真紅の瞳を見据えるだけだ。
「エルマいい?・・・何も見なかった、だから何も知らない、いいわね」
エルマはなんとか頭を動かし上下に振る。
「あなたの記憶を操作したくないわ、だから忘れなさい」
「はいドロシーお姉さま」
ドロシーが発していた威圧が消え去った、彼女はまっすぐ姿勢を正すと脱げかけた修道女のローブを再び纏う、そしてベール越しにエルマに微笑む、もう瞳の輝きは消えていた、ベールの奥で真紅の瞳が鈍く光るだけだった。
「さあ戻るわよ、お茶にしましょう」
二人の姿はリビングから掻き消えた。