テヘペロの契約
「ディートリンゲン嬢、なにか気になりますか?」
テヘペロにつられてカレルも天井を見上げている。
「なんでもないわ、気のせいです」
そしてカレルは満面の笑みを浮かべた。
「貴女の快諾を得られまして我らも助かりました、貴女様は上位魔術師でペンタビアの貴族階級に属して居られた、良い返事をいただけない事も覚悟しておりました」
テヘペロはそれを聞いてためいきをついた。
「このお話は随分と繊細なお話ではないかしら?」
カレルは今更それを言うか?その身体に負けない丸顔でそんな表情を作った、つい感情が表に出てしまったのだろう。
「それは我らも自覚しておりますが、高位の女性の高官がおりませんし、貴婦人に話を通す時間も・・・」
「女に言われたくないわよ!」
テヘペロは思わず拳でテーブルを叩くとついに怒り出す。
「相手が王族だから受けるのよ、下手に蹴ると後が怖いわ」
カレルはこれを聞いて納得したように苦笑いを浮かべる、そこから僅かな共感すら感じる事ができた。
心を落ち着けるとテヘペロは作り笑いを浮かべて話を先に進める。
「まず条件についてお話を聞かせて頂けませんかしら?」
「たしかに失礼いたしました、ハハッ」
カレルが隣のボリスを促した。
ボリスがギルドマスターの話の後を継ぐ。
「まず報酬はお金でお支払いする予定でございますが、まずやんごとなきお方が貴女様を気に入らなければ何も始まりません、その場合でも前払い金をお渡しいたします」
「それで良いのかしら?」
「事情が事情な為、貴女様のお身柄をハイネ評議会預かりといたしますので、その間の報酬となります」
「あら嫌だわ自由が無くなるのね」
「事情が事情ですので」
テヘペロは急に意欲が萎えて行くのを感じていた、王族に近づける絶好の機会なのにその気分に当惑してしまった。
何か重要な事を忘れているそんな気分になるとまた目眩と吐き気を感じた。
「そんなに自由が好きだっけ?」
テヘペロの小さな言葉は二人の男に聞こえる事は無かった。
ボリスが咳払いをした。
「殿下が貴女様を気に入りましたら、貴女様を魔術顧問としてハイネ評議会が派遣する人員に加わっていただきます、それが貴女様の公式の身分となります」
「ふーん、まあ自然だわね」
「契約期間ですが殿下がハイネから去るまでですが、正直申し上げますと殿下が貴女様に飽きるやもしれず、戦がいつ終わるかも現時点では不明です」
「それは困るわねえ」
「契約が終了した後も、殿下が貴女様をお気にめした場合、貴女様と殿下の間で新しい契約を結んでいただきたくございます」
テヘペロは思わず笑いだした。
「いやねえ、でも気に入られるとも限らないか」
「さてこれがこちらの提示する報酬です」
ボリスが石版を高級なテーブルの上に置く、テヘペロはそれを手に取ると読み流す、そこに前金が提示されいた、テヘペロのアパートの三年分の家賃に匹敵する額だ。
一日当たりの日当はハイネ魔術師ギルドでテヘペロが一日で稼ぐ事のできる額の二倍程にもなる、かなりの金額だがハイネ評議会が同盟国の王族の元に派遣する魔術顧問の報酬として見ると高くはない。
「ふ~ん」
「忘れておりましたが、貴女様にはいつでも殿下の下問に応じられる様に殿下に近侍していただきます、特別手当は一日あたり三十アルビィンとさせて頂きます」
庶民の一家なら一月あたり百アルビィンもあれば生活できる、この特別手当が本命だった。
「その間は貴女様に必要な宝飾品などをお貸しいたします、また専属の使用人をお付けいたします」
「衣服はよろしいのかしら?」
「その件に関しまして貴女様に合う衣裳を至急用意いたしますが、それは報酬としてお譲りいたします」
テヘペロはそれを聞くとひっかかりを感じて眉を潜めた、オーダーメイドの衣裳なら自分しか着れないのは確かなのだが、しばらく誰も口を開かなかった。
僅かな沈黙を妙に陽気な声でボリスの声が破る。
「そして任務が終わりましたら、ハイネ評議会付きの魔術顧問としての席を用意いたしますぞ、その関係で我らハイネ魔術師ギルドが貴女様と評議会の窓口を努める事になりました」
「かなりの報酬だわね」
「上位魔術師は極めて貴重なのです、このハイネでも両手で数える程しかおりません」
テヘペロはまた考え込み始めた、報酬は十分だが危険も伴う仕事だ、自分がなぜこんなところにいるのだ?
それを考えると急に頭が痛くなりはじめる。
「貴女様は他に何かお望みでしょうか?」
それにボリスの声が被った、眼の前の妖艶な美女の態度に不審を感じたらしい。
「私の望み?願い・・・」
テヘペロは自分の望みって何かしらとふと考える、すると目の前に黄金のトランペットの幻影が浮かび上がった、その黄金の煌めきはテヘペロの心の深いところに眠る渇望そのままの姿だ、世界の運命の中心に近づきたい、そうすればもっと何か別の自分に成れるそんな気がするのだ。
「ああっ・・・」
うめき声がその妖艶な唇の隙間から漏れた、カレルはまた不審な顔をすると隣に座るボリスと顔を見合わせた。
「そうだわ、なんて事!!」
「デートリンゲン様?」
困惑したボリスがつぶやく、テヘペロは困惑し言い訳じみた弱々しい笑みをうかべた。
「疑問に思ったのだけど、そちらの条件を満たす方なんていくらでもいるのではないかしら?」
「探せば見つかるかもしれませんが、時間が無いのです、殿下は早ければ三日でハイネに到着なされます」
「くっ、余裕が無いわね」
ボリスが懐から羊皮紙を取り出してテーブルの上に広げるとテヘペロの方にそっと寄せた。
「おいボリス!」
カレルが慌ててボリスを阻もうとする。
「これが向うからの要求です、妙齢の淑女にお見せできるものではありませんが、こちらの誠意を信じて頂きたいと想いまして。
貴女様が受けていただければ、ハイネどころか連合軍の勝利の助けとなる事でしょう、無礼を押してお願いしたい」
テヘペロより年上のギルドの執事長が頭を軽く下げたのだ。
テヘペロは恐る恐るその羊皮紙を指で摘むと、顔をそむけながら読み始めた、まるで読むと呪いでもかかりそうなアイテムであるかの様に。
しだいに彼女の顔が赤くなる、そして最後に怒りだした、そして先ほどまでの気鬱な空気が吹き飛んでしまった。
「何よこれ、まったくもう失礼ね!」
「ハハッ、呆れたのは我らも同じですぞ!」
カレルが乾いた笑い声を上げる。
「私を何だと思っているのかしら?」
「私の眼から見ても、貴女様は素晴らしい淑女です」
カレルが照れながら紅潮した顔のテヘペロにお世辞を言った、炎の魔女と呼ばれた彼女は怒りを力に変える種類の女なのだ、だがそれは怒りだけだったのだろうか。
その時また天井が僅かに軋んだのでテヘペロはその僅かな気配を察して上を見あげる。
「ネズミでもいますかな?」
ボリスが天井を睨みつけたがそれっきり何も起きない。
テヘペロは大げさに肩をすくめてみせる。
(いいわ吹っ切れたわ、大きなチャンスを掴むわよ、夢ばかり追ってもいられないか)
「この条件で受けますわ」
ボリスとカレルは一瞬顔を見合わせて向き直った、ボリスは満面の笑みを浮かべている。
「おおそれでは!それは助かりました、当方も支援いたしますので何も心配いりませんぞ、ハハッ」
ボリスが先を続ける。
「さて時間があまりございません、できるだけはやく準備を始めませんと」
「アパートを解約したりやらなきゃならない事があるわ、そして私物も整理しないと、明日一日お時間をいだけませんかしら?」
「それは問題ありません」
「では明後日の午前中にここに来るでいいかしら?」
「デートリンゲン様、私物はすべてお持ちください、その後の宿舎はこちらで手配いたします、その後は護衛と監視が付きますのでご了承ください」
「ええ分かったわ・・・まだ日が高いわね、今日中にできる事がありますの、私はこれでお暇いたしますわ」
そこで深くため息をつくとゆっくりと立ち上がる、その身のこなしは上流階級の淑女でなくてはこなせない美しい仕草だった。
ボリスとカレルはエントランスまでテヘペロを見送る事にした、ギルドの職員や魔術師達がその異様な光景に何事が起きたかと驚いている。
受付にいた女魔術師ゼリーも不思議な物を見るかの様にテヘペロの後ろ姿を見送っていた。
魔術師ギルドの裏側の狭い通りの石畳みの上にしなやかな人影が音もなく着地した、石畳みの上に手足を巧みに付けて着地した人影は白と黒のコントラストが美しい瀟洒な使用人のドレスを纏っている。
「ご苦労だったなベル」
「おかえりベル」
ルディとアマンダがベルをいたわると人影がゆっくりと立ち上がる。
彼女の瀟洒な美しい使用人ドレスは埃で薄黒く汚れ蜘蛛の巣が全身にこびり付いていた、自慢の長い黒髪もおなじ惨状だ。
アマンダが眉をひそめるとベルに近づきベルの全身を手の平で叩き始めた、ホコリがもうもうと沸き上がる。
「いたたた、強く叩かないで!!」
ベルは不思議な踊りを踊りながらわめく、大通りの通行人が騒ぎを聞いて足を止めて何事かと裏道を覗き込んで来る。
「気合を入れなさいベル」
アマンダの叱咤と共にその瞬間ベルの全身が精霊力に満たされた、アマンダは更に情け容赦なくベルの全身を叩き続けホコリが舞い上がる。
「中の様子はどうだ?」
すっかり落ち着いたベルはアマンダに全身叩かれながら平然としている。
「ルディ、あの女はやっぱりテヘペロだよ、でもやっぱり偽名だった本名はディートリンゲンらしい、でもファーストネームはわからない」
ベルはホコリが眼に入るのか眼をしばたかせる。
「他に何かわかりましたか?ベル」
アマンダがベルの髪に付いたホコリを丁寧にとってやりながら話しかける。
「僕達や魔導師の塔の話は出てこなかったよ、詳しい話は帰ってからね長くなるから」
アマンダは最後にベルの服装を丁寧に整えてやってから少し離れて全身を検分した。
「これで我慢するしかないわね」
ベルは自分のドレスを眺めまわしてから微笑んだ。
「ありがとうアマンダ」
「さあ、ここに長居は無用だ行こうか」
三人はルディを先頭に裏通りから大通りに出た。