ヴィゴとトールヴァルド
エスタニア大陸東部の内陸に広大なテレーゼ平原が広がる、大平原の東側はエドナ山塊によりエルニアと隔てられ、南側は南エスタニア山脈により沿岸諸国とアルムト帝国と隔てられていた、西側はラングセル山地がセクサドル王国との境界を成している。
そして北側のテレーゼとグディムカルの境界をグリティン山脈がはたしていた、山々は高こそ無いが複雑な地形と深い森に覆われた天然の防壁になっていた。
グリティンの空は陽が落ちるまで無数に立ち上る幾筋もの煙に灰色に染められていたが、ハイネ軍の撤退と共に山中の砦や柵が焼き払われたからだ、だがそれも日も落ちる頃には薄れ夜の闇に沈んだ。
そんな山々の北側の裾野に頭の平らな大きな岩山がある、その上にグディムカル帝国の南の護りの要グディムバーグ要塞が築かれていた。
要塞の周囲はの粉を撒いたように無数の光が散らばる、要塞内部に収容できなかった軍が周囲に野営しているからだ。
普段は静かな要塞は明々と篝火に照らし出され、要塞の尖塔に掲げられた巨大な翼竜の大軍旗が皇帝がこの地にいる事を示していた。
その要塞の最奥の『皇帝の間』に皇帝トールヴァルド五世が寛ぐ、部屋は至高の存在を迎えるにふさわしい内装と調度品で整えられていた。
『皇帝の間』はグディムカル皇帝が行幸に臨んだ時に使われる特別な部屋でいかなる名門の貴族であろうと使うことは許されない、例外は世継ぎの皇太子と正妃に限られる。
そして皇帝の間が使用されたのは数年ぶりの事だ、だが前に部屋を使用したのは皇帝を僭称したトールヴァルドの叔父の皇弟で、新皇帝は部屋の作り直しを命じたかったがそれを後回しにするだけの賢明さも備えていた。
要塞の要人達との謁見を済ませた皇帝は一息つくと何を思ったのか若い側近候補達を『皇帝の間』に招集させる、急に呼び出された側近候補達は皇帝の用件がわからずいくぶん緊張した面持ちで皇帝の前に居並んだ。
その中に若き帝国騎士ヴィゴもいる、英雄グルンダルの弟として注目を浴びる若者だ。
玉座に座した皇帝は若い側近たちの当惑と緊張を読み取り破顔した。
若々しく力強い美丈夫が笑うとそれだけで華があった、それは麗人や貴人の華ではない、偉大な英雄の放つ華やかさだ、それはトールヴァルドの偉業の放つ輝きでもあった。
皇帝は皆を見渡すとゆっくりと立ち上がった。
「まあ少し気を楽にせよ、公式の面談ではない」
だがそれを信じる者はいない、すべては将来の人材を見極める為の試験だと皆それを理解していた。
「明日からまともな屋根のあるとこで寝泊まりする事もできなくなるぞ、次にベッドで眠るとしたらそれはハイネであろう」
その言葉で皆に緊張が走る。
皇帝はそのままテラスに向かった、部屋の南側に大きなテラスが設けられているが、そこから暗く沈んだグリティンの山々を臨む事ができる。
側近候補達はお互いに顔を見回すと皇帝の後に続いて外に出る。
そして彼らは山肌を蛇行する無数の微細な光点に気づく。
「夜も軍の移動は行われている」
それを察したのか皇帝は皆をふりかえることも無く囁いた、夜間の軍の移動に皆が息を飲んだ。
「行軍の終わりも近いからな無理が効く、山を越えたらそこは最前線だ」
側近達は黒い影となった山々を改めて見つめた、そして蛇の様に蛇行する光の点が山中を縫う街道に沿ったものだと理解した。
「明日大本営も山を越える、あの山の向こう側に連合軍も徐々に集結しつつある」
若者達は聞き耳を立てるが言葉を発する者はいなかった、主君が彼らを集めた意図をまだ掴めていないからだ。
「今まで俺はお前達にそれぞれ役割を与えてきた、この戦いでは俺の側で全体を見せる、よって総ての任務を解き側使えとする」
声無きどよめきが生まれた、それは大変な栄誉な事だが、若僧が付くことのできる任務ではない、本来皇帝を補佐する役割なのだ伝令とはわけが違う。
そしてそれで失敗すれば将来を閉ざされる事になるだろう、その事に気づいた者は顔色を青ざめた、目敏い者はこれは最終試験だと気づいて緊張する。
「陛下の思し召しだ、粗相の無いようにな」
枯れた声が背後から聞こえてきた、やがて初老の武官が背後から姿を表す、彼は古くからトールヴァルドが皇太子の時から従い、今回の戦いでも帝都に居残りせず従軍したエメリヒ=グラウン伯爵だった。
背の高い男で鍛えられていたが最前線で戦う男ではない、初老の男だがもっと年上にも見えた。
短く切りそろえた白髪と深く刻まれた皺が目立つ、だが灰色の瞳とその眼光は鋭い。
「心配するなこいつがお前たちのお目付け役だ」
トールヴァルドは楽しげに笑った、エメリヒは顔を顰めたが満更でも無さそうだ、今まで何度もこうやってきたのだろう。
そして皇帝は闇に沈んでいく山影を睨む。
「この山々の向うは戦場だ」
そのまま皇帝は先を見つめたまま何も語らない、その沈黙を乱す愚か者はここにはいなかった。
若き帝国騎士ヴィゴは皇帝の胸中を推し量るが理解が及ばない、偉大な英雄の壮途を思うと体が熱くなった、グディムカルの新たな歴史が開かれる瞬間に立ち会う事ができる、教養のある若者ではなかったが、なぜかそんな想いに駆られたのだ。
ヴィゴも戦で死ぬ事は覚悟していた、だが世から英雄グルンダルの弟としか見られない己の生が別の何かに変わるような予感を感じた。
今までは武功を上げて出世する事しか考えた事がなかった、父の名を汚さない事、超人的な戦士だが一介の戦士でしかない父を武人として越える、そんな野心が霞む程の輝きが目の前に存在するのだ。
それを思うと体が震える、そして最後の最後まで総てを見届けなければならない、そんな奇妙な想いにとらわれていた。