ある士官の懸念
ヘムズビー=ハイネ街道をハイネに向かって順調に進軍するセクサドル軍は、街道の真ん中で進軍を止めて小休止を取る。
本営付きの士官のカメロも街路樹の日陰に腰をおろし足を休めていた、だが何もせずに休む事ができない性分なので、さっそくメモを取り出し記憶を整理し書き込み始める、この男はこうやって知識や情報を整理する癖が染み付いていたのだ。
近くで涼んでいた悪友のオレクは呆れ顔をしてカメロ一瞥しただけで何も言わずに草地の上に寝転がってしまう。
『テレーゼ王国の混乱は今から四十年前の継承者争いから始まる、
その混乱の中で王室は断絶し諸侯が割拠し勢力争いを繰り広げ国土の荒廃した。
その内戦もここ10年ほどテレーゼは平穏を取り戻しつつあった、だが王国の再統合が行われたわけで無い、
周辺諸国の事情に助けられ偽りの平和を貪っていたにすぎなかった、少なくとも周辺諸国の為政者達のテレーゼを見る目は冷ややかだ。
そして野心的な隣国のグディムカル帝国も内部が乱れテレーゼに干渉する余裕が無かった、その乱れは二十年前に吹き出し皇太子派と皇弟派による内戦へと至った。
帝都は灰燼に帰し帝国は皇太子派が支配する北部と皇弟派が支配する南部に分裂してしまった。
テレーゼ北部の自治都市ハイネは帝国の内紛に乗じグディムカル帝国の分裂を維持し内戦を煽る工作を続けた、それは優れた資質を見せる皇太子に対し劣勢な皇弟派を背後から支援すると共に、皇太子派の支配地域の弱体化に力を注いできた。
だがその均衡は一年ほど前から急激に崩れ始める、ハイネの息のかかった皇太子派と皇弟派内部の有力者が次々と倒れ、半年前に現れた英雄『黒い戦士』の威名が轟くと同時に皇太子派に有利に情勢が傾き始める、一度傾いた天秤は戻らずその流れを止める事ができず皇弟派はあっけなく滅んだ』
カメロはメモを閉じペンを箱に仕舞うと背嚢に放りこんで立ち上がる、本営付きの兵達が士官の馬の世話をしている姿をを眺める、兵達には休む暇もないが貴族出身が多い士官のほとんどはそれを気にもしなかった。
カメロは晴れ渡ったハイネの空を見上げる、どこまでも深い蒼い空が広がっていた、複雑な地勢で気候が激しく変化するセクサドル王国の空とは趣が異なる。
この穏やかな世界に遥か北の大地から黒き戦の炎が動き出始めている、まもなく戦いの炎がやってくる。
カメロはそんな想いに耽った。
その時ビューグルの音が鳴り響き休息の終わリを告げた、だが大胆な事に悪友のオレクは目を覚まさない。
「おい行くぞ!」
カメロは無慈悲にも親友の脇腹に軽く蹴りをいれる、それでやっとオレクは目を醒ます。
「おっといけねえ、始末書を書くのに夜更かししたのがヤバかったか」
オレクは重い腰を上げると軍服にこびり付いた下草の葉を叩き落としはじめた、カメロは背嚢を背負うと自分の馬にさっさともどってしまった。
まもなく進軍のビューグルの音が鳴り響くと軍列はゆっくりと前進を始めた。
馬車の立てる轟音と装備が奏でる金属音と軍靴の音に馬の嘶きが混じり合い不協和音を奏でる。
カメロは騒音から逃避するように次の小休止に書き留める文章を頭の中で整理する事にした。
『グディムカル帝国の内戦の集結に危機を感じたハイネはテレーゼ北東部の諸侯を糾合しハイネを盟主としたハイネ通商同盟を結成する。
ハイネは有力な製鉄業を擁し東エスタニアで飛び抜けた経済力を有していた、そしてハイネ以外に盟主になりえる者はいない。
ハイネの軍事力は平時一千程の常備軍を有するだけだが三千の予備役兵を有していた、それに通商同盟諸侯の兵を糾合すると七千を越える軍事力になる、だがこれだけでは本格的なグディムカル帝国の侵攻に対抗する事はできなかった。
それでも彼らはグディムカル帝国は内部の安定と荒廃した国土の立て直しに最低でも数年の時間を費やすと楽観視していたのだ。
それ故にアラティアやセクサドルとの同盟を慎重に進めていたが情勢が激変する、グディムカル帝国が南進の兆候を見せると、ハイネ=アラティア=セクサドルの連合結成の流れが一気に加速した』
「どうしたおまえも寝不足か?ああ上申書か・・・」
オレクはどこか心ここになさげなカメロの事が気になったのか馬を寄せてくる。
「寝不足などではない」
それに対してそっけなく答えると、オレクはそれを気にするでもなく顔を近づけると声を落とした。
「上申書はどうなった?」
「出したさ、極少数の偵察部隊が侵入している可能性が高いが、深刻な脅威は無いとさ」
「それが普通か、おまえは違うんだろ?」
オレクは友人の事をそれなりに理解している。
「グディムカルの南進が思いつきでないとしたらどうだ?内戦が終わる遥か前から準備をしていたとしたら?」
「それは伝えたのか?」
「もちろんだよ、一応北方への偵察を密にするとさ」
「そうだな山脈のこちら側に物資を集積しておけば、身軽な兵だけ山を越えさせれば済むか」
オレクは軽薄な男だが決して馬鹿では無いのだ。
「そうだテレーゼの辺境にいくらでも隠す場所がある、だがそれを探す時間も人手も我々には無い」
「まあ、こっちの兵站を妨害されると面倒くさいな」
オレクの言う通り少数の精鋭部隊でセクサドル軍の兵站を妨害するのは理にかなっていた、カメロは周囲を見回すと更に声を落す。
「それだけか?俺たちの戦略を思い出せ」
「ん?グリティン山脈の街道を下ってくるグディムカル軍をテレーゼ側で扇形陣で迎え撃つ、まともに野戦などしない」
街道に沿って進撃してくるグディムカル軍をその出口で半包囲して撃滅する戦略を立てていた。
「そうだ、こちらは数こそ多いが寄せ集めだ、馬鹿で無いかぎりこれが最良と考えるさ」
カメロの視線が最高指揮官の背中を見つめている事に気づいたオレクの顔色が青くなった。
「連合軍が到着するまで奴らをテレーゼ平原に進出させない事が要になる」
オレクは少し熟考していたが答えを見出す。
「あーそうか、お前の言いたい事が解ったぞ、だがなそれをやるには数千規模の大兵力が必要になるぜ?タイミングも難しい」
「そうだグリティン山脈のテレーゼ側の出口を別働隊で抑える、グディムカル帝国軍をテレーゼ平原に展開させてから大会戦を挑むんだ、野戦に自信があるトールバルトが考えそうだと思わないか」
「だがお前の懸念に今のところ根拠が無い、テレーゼ北部にもこちらの密偵が浸透しているんだ」
「だから偵察を密にするそうだ、俺の懸念が無視された訳では無い」
カメロは疲れた様子を見せた。
「奴らは二月前まで南進の気配すら見せなかった、それがこちらの対応が遅れた原因だ、俺もグディムカルが動くのは数年先だと読んでいたんだ」
軍は轟音を立てながら進んでいく、二人の会話はその騒音に紛れ誰かの耳に拾われる事は無かった。